「承久の乱」の後鳥羽上皇と、「南北朝の戦い」の後村上天皇。戦う2人の天皇の、勇壮無比の活躍は果して真実なのか? 戦う天皇の秘史に迫る連載、「承久の乱」の次は「南北朝の戦い」の後村上天皇にスポットを当てる。
 
石清水八幡宮/観応の擾乱における「八幡の戦い」の舞台となった。

南北朝の雌雄を賭けた合戦、男山八幡の戦いに破れる

 正平の一統が破綻して京都を撤退した南軍がさらにだめ押し的な敗北を喫したのが正平7年(1352)5月11日男山(山城八幡)戦争である。当初入洛しなかった後村上は正平7年2月には京都還幸の意志を伝え、行宮賀名生から河内東条、摂津住吉、天王寺を経て、閏2月には山城八幡に進出していた。こうした状況のもとで南軍と北軍の間で京都周辺で戦争が繰り返されていたが、5月11日幕府軍は八幡の南朝軍に総攻撃を仕掛け、この戦いで八幡陣は敗北、多数の死者を残して後村上以下の南軍は本拠賀名生に逃げ帰った。南朝の重臣四条隆資、白河公冬、源具忠らが落命したのはこのときである。南朝にとってはまことに大きな痛手であった。

 皇子たちの各地分遣による全国制覇をもくろんだ後醍醐の構想はそのまま後村上に継承されたから、後村上が各地で転戦する兄弟皇子たちに支援を求めたのは当然であった。まず、肥後菊池氏のもとで九州制覇をねらっていた懐良(征西将軍宮)には正平7年閏2月に上洛するようにとの後村上の内意が伝えられ、鎌倉下向中の足利尊氏の京都進撃に備えようとしたが、懐良の来援を得るまもなく、右述の男山戦争で南朝軍は大敗した。後村上の懐良に対する支援の依頼は正平11年正月にもなされており、『五条家文書』に収める自筆書状に「宮(懐良)の御かた御のほり返々めてたく候」と記されている点からみると、懐良は上洛を承諾していたものとみられる。
 しかし懐良の上洛は実現しなかった。他方宗良に対しても、その私家集『李花集』所収の一和歌の詞書に「信濃よりとく力をあはせてせめのぼるへきよしおほせられ」(『李花集』)とあるように、根拠地信濃から軍勢を組織して攻め上るよう指示している。後村上の京都奪還への執念は男山戦争の敗北の後もいささかも衰えをみせていないのである。

 

 室町幕府の記録である『花営三代記』など信頼のおける史料によると、後村上天皇が住吉の行宮で崩御したのは正平23年(応安元、1368)3月11日のことで、享年は41歳。『李花集』に収める宗良の一和歌の詞書に「……住吉殿(後村上)よりも御文ありて、このほど打ちつゝき御悩にて、御心くるしかりつるやうなど仰せられ……」とあるから、後村上は病気に罹っていた模様である。
 墓所は大阪府河内長野市寺元の檜尾陵。あとは嫡子長慶天皇によって継がれた。