日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 
 

関東の覇者・北条家天下人・秀吉に屈する

 秀吉にとって小田原城攻めは、天下統一に向けての最後の一戦だった。天正18年(1590)3月29日、豊臣勢は北条(ほうじょう)方の最前線・中城に殺到。わずか半日で攻め落とし、小田原城へと進撃した。

 4月上旬には小田原城を包囲する態勢を整えつつ、城攻めの本陣として石垣山城の造成に着手。わずか2カ月で第1次の工程を完了させ、入城している。さらに小田原城を包囲する一方で、関東各地に張り巡らされていた北条氏の支城網に対し、別働隊を派遣して分断。関東の覇者として君臨した北条氏が秀吉に屈服するのは時間の問題となった。

 当主の氏政の弟にあたる北条氏規(うじのり)は、韮山(にらやま)城に立て籠もり、徳川家康が率いる10倍以上にも及ぶ攻城軍の猛攻に3カ月近く耐えた。しかし6月24日、氏規は、家康の勧告に従って開城を決意。「城主切腹城兵救命」の法則に従えば、切腹すべきところだが、兄・氏政の説得という任務を与えられ、小田原城へ移動する。

 その結果、7月5日、氏政は降伏を決意。11日、氏政は弟の介錯によって切腹したことから、小田原城攻めでは、城主切腹城兵救命の原則が貫かれている。

 秀吉は、天下統一の過程のなかで、四国攻めでは長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)には助命のうえ、土佐一国の所有を許し、九州攻めでは島津義久(しまづ・よしひさ)にも薩摩・大隅・日ひゅうが向の三カ国の所領安堵を認めている。北条氏の場合、天下人への反逆という面では同罪だったが、手駒として利用する価値がないと判断され、滅亡へと追い込まれたのだ。
<次稿に続く>