日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 

「そこは切腹でしょ」一般に認知された切腹のルール

 小田原城攻めでは、小田原城以外にも攻城戦が繰り広げられ、状況によって違う処分が下された。


 松井田城主の大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)は、前田利家が率いる別働隊が接近すると、降伏を誓った。その後、大道寺は、前田勢の道案内を務めるものの、小田原城が陥落するとともに、切腹を命じられた。戦国時代の中盤戦までであれば、大道寺の行為は評価されていたのだが、天下統一の最終段階になると、このような裏切り行為は評価されず、城主切腹城兵救命の原則が少し遅れて適用されたともいえよう。


 氏政の弟にあたる北条氏邦(うじくに)は、鉢形(はちがた)城に立て籠もって前田勢を迎え撃った。1カ月にわたる攻防戦のすえ、城主の氏邦は前田利家の開城勧告に応じて降伏。ところが、秀吉は利家が自身の許しをえず、城主切腹城兵救命の原則を適用しなかったことに激怒する。また、参陣した武将たちの間にも、氏邦が切腹しなかったことに対し、疑問視する声が高まった。

 結果として、利家が小田原城攻めのさなかにもかかわらず謹慎することで、天下人秀吉の怒りは収まってはいる。この一件により、城主切腹城兵救命の原則が広く認知されていたことが理解できよう。
<次稿に続く>