日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 

肥後統治に失敗した責任を償う

 

 天正16年(1588)閏(うるう)5月14日、秀吉は、隈本城主の佐々成政(さっさ・なりまさ)に対し、切腹を下命。成政は、命に従って切腹した。この一件は、名誉ある刑罰としての切腹のなかでも、初期の例である。
 秀吉と成政との関係は古く、少年のころから信長に仕えた。当時は、成政の地位の方が高かったにもかかわらず、信長が死んだころには完全に逆転。天正12年の小牧・長久手合戦では、富山城主だった佐々成政は、反秀吉陣営に属した。天正13年8月、総勢10万とも称される羽柴勢が越中に侵入すると、成政は、富山城を出て、謝罪の意志を明らかにするため、出家して頭を剃り、秀吉の軍門に下る。

 天正15年(1587)3月、秀吉は島津義久(よしひさ)義弘(よしひろ)兄弟を討伐するため、大坂城を出陣。九州島津攻めの幕が切って落とされた。成政は豊臣軍の一員として従軍し、秀吉への忠節を示すため、各地を転戦して武功を立てた。秀吉は、軍門に下った島津氏から没収した領地を配下の部将たちに分配。肥後一国については、九州攻めで自身への忠義をアピールした成政に与えた。成政は、秀吉に叛いて越中一国を取り上げられながらも、秀吉によって一国の主の座を取り戻すことができた。だが、成政による奇跡の復活劇には、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。

 肥後では、国人と称される土地とのつながりの強い地侍の勢力が根強く、侮りがたかった。秀吉は、成政を肥後一国の主とするのとともに、3年間は国人たちの既得権益を守るように厳命したともいう。
にもかかわらず、成政は、有力な地侍の領地にも検地を実行し、自身の支配下に従えようとしたことから、肥後国内は一触即発の情勢となる。そして、成政の肥後入国からひと月後には、隈府(わいふ)城主の隈部親長(くまべ・ちかなが)が叛旗を翻すと、国内の地侍たちが続々と決起し、成政が本拠とした隈本城へと押し寄せた。

 秀吉は、成政が苦戦していることを知ると、名島城主の小早川隆景らに対し、肥後への出陣を下命。援軍の到着により、佐々勢は勢いを盛り返し、12月には地侍たちによる反乱を終息へと導いている。

 翌年2月、成政は状況報告と謝罪のため大坂に出向くが、秀吉との面会は許されなかった。のみならず、尼崎の法園寺という寺院で拘禁され、領土の統治に失敗して反乱が続発したことを罪とし、切腹を命じられてしまう。名誉ある死でありながらも、刑罰としての切腹が実行に移されたのだ。
<次稿に続く>