日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 


謎につつまれた切腹劇の顛末

 

 天正19年(1591)2月28日には、千利休(せんのりきゅう)が秀吉の命によって切腹している。茶人もしくは商人に分類される利休が切腹するのは、不自然なイメージがつきまとう。ただ、利休が斬首の刑に処されるほどの罪を犯したわけでもない。


 なぜ秀吉が利休を抹殺したのかは永遠の謎ともいえる。秀吉は、利休という存在を抹消したいという欲求を抑えきれなかった一方で、切腹という名誉ある死の方法を命じた。茶人利休が切腹したことは、多くの人々の印象に深く刻まれ、刑罰としての切腹の歴史における大きなエポックとなっている。


 文禄4年(1595)7月15日、関白の座にあった豊臣秀次(ひでつぐ)は、叔父の秀吉から切腹を命じられた。秀次は、謀叛の罪を着せられ、その責任を取らされるのだが、8月2日には39人の妻子が斬首の刑に処された。秀吉は、実子の秀頼(ひでより)の将来を思い、秀次を抹殺するとともに、将来に禍根を残さないため、その子孫を根絶やしにしたのだ。切腹という名誉ある死が刑罰として定着する過程では、不公正かつ恣意的な運用が行われていたこともまた、秀次切腹事件から理解できよう。


 江戸時代になると、切腹は名誉ある刑罰という考え方が定着。元禄14年(1701)3月、浅野長矩(あさの・ながのり)は江戸城内で刃傷(にんじょう)事件を起こし、切腹を命じられた。翌年12月には、浅野家の旧臣たちは、主君の仇として吉良義央(きら・よしひさ)を殺害。元禄16年2月、吉良邸を襲撃した46名の武士たちには切腹が下命される。この赤穂(あこう)事件(忠臣蔵)の流れを精査すると、切腹が名誉ある死として広く認められていたことがよくわかる。
<了>