日本の軍部独走・侵略史観に基づく悪玉扱い、逆の「日本は悪くなかった、悪いのは周りの大国だ」という日本小国史観、海外大国による外圧・陰謀史観。これらの歴史観はすべて間違いだ。『学校では教えられない 歴史講義 満洲事変 ~世界と日本の歴史を変えた二日間 』を上梓した倉山満氏が満洲事変の真実に迫る!
関東軍総司令部(新京)

■石原莞爾とて、お役所仕事を全うしたにすぎない。

 満洲事変を正しく、常識的に知るために、二〇世紀初頭の情勢から事変前夜、事変、事変後の情勢を時系列で詳しく追っていきます。

 陸軍省と参謀本部は、満洲において軍事行動を起こすこと、つまり満洲事変には反対でした。五・一五事件で暗殺された犬養毅を曾祖父に持ち、国際連合における政治活動で知られる、緒方貞子氏という国際政治学者がいます。意外に知られていないことですが、緒方氏の功績のひとつに、「満洲事変は陸軍が一枚岩で行った」というそれまでの通説に対して、中央対出先、つまり参謀本部対関東軍という構図を明らかにした研究があります。著書『満州事変と政策の形成過程』(原書房、一九六六年)で緒方氏は次のように述べています。

 昭和六年(一九三一年)八月、関東軍の「情況判断ニ関スル意見」は同年の参謀本部の情況判断を批判し、「満蒙問題解決国策遂行は急速ヲ要ス」と主張した。参謀本部は満州問題の解決方策を三段階に分け、第一段階においては外交交渉を主として日本権益の確保を試み、第二段階においては親日政権の樹立を考え、第三段階において満州の軍事占領を企図していたが、当時はいまだ張政権を相手とした外交交渉により事態の解決にあたり得る段階にあると判断していた。

 また、「軍中央部は、謀略により満州事変を引き起こすことに同意したのでもなければ、またこのような計画の存在を承知していたのでもなかった」ことを明らかにしています。

石原莞爾(1889年~1949年)

 満洲事変時の関東軍司令官は新任の本庄繁ですが、当時外務省の守島伍郎亜細亜局第一課長が残した話によれば、本庄司令官は「座敷牢に入れられたような形」でした。一説には、仏壇を拝んで終わる毎日です。本庄司令官を蚊帳の外に置いて事変を敢行した中心人物のひとりが石原莞爾でした。石原莞爾は当時、関東軍参謀で、言ってしまえば課長です。

 ちなみに石原と言えば、「世界最終戦論」が有名で、「日米が人類の最終戦争を行う」という予言を振りまいていました。しかし、石原の予言など、軍内部ではSF扱いです。そういった石原の立ち位置を無視して「世界最終戦論」だとか、あるいは石原が信仰した日蓮宗だとかといった思想を追うから、わけのわからない話になります。石原は、お役所仕事の枠内でしか生きていない、課長職の役人にすぎません。

 参謀総長から「これは天皇陛下の命令だ」と厳しく通達が来たら、従わなければ逆賊です。石原もその枠内でしか動いていません。石原や関東軍が行ったのは独走などではなく、脱法行為の積み重ねに過ぎません。

 脱法行為ということは、基本的には法律を守るということを意味します。事変を通じて、日露戦争講和条約の際に定めた北京条約の「関東軍の上限は一万五千人」を関東軍は律儀に守りました。「軍部」の「独走」などは過大評価です。

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