常山城(岡山県玉野市)は、三村氏の支城で、城主は三村元親の姻戚である上野隆徳であった。隆徳の妻鶴姫は、戦乱の中、武を貫いた烈婦として、後の世に名を残している。
『歴史人』5月号では、その鶴姫の奮闘ぶりを、歴史作家の楠戸義昭氏が紹介している。

「天正2年(1574)から翌年にかけて、毛利・宇喜多連合軍と三村氏の戦いが備中を中心に展開された。松山城を囲む端城は次々に落とされ、同3年5月、松山城が主戦場になった。毛利は力攻めをせず、内応工作をして、内部からの崩壊を待った」
 ほどなくして、松山城は陥落。三村元親の妹鶴姫を妻にしていた上野高徳の常山城に押し寄せた。
「6月6日、常山城の大手木戸が破られ、二の丸が占拠される。味方は2百余騎に過ぎず、高徳自ら鉄砲で応戦したが、落城は目に見えていた。
 翌7日、高徳は一族自決を決めた。57歳の継母が、柱に刀の柄を固定させ、刃先に突進して胸を貫く。嫡子高秀は腹を切る。高徳の16歳の妹は、継母が使った血まみれの刀で、自ら乳房のあたりを突いて果てた」

 

 その様子を凝視する鶴姫は驚きの行動に出る。
「彼女は鎧に長さ1.1メートル余の太刀をつけ、丈と同じ長さの黒髪を打ち乱し、三枚甲の緒を結び、紅の薄衣を打ち掛け、白柄の長刀を小脇に挟み、広庭に躍り出た。女房たちは“女が戦えば死後、修羅の責め苦から逃れられませぬ”と止めると、鶴姫は“己は邪正は同じと観念し、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦しみも極楽の営みと思えば、何も苦しくはない”と振り切った」
 女房全員34人が鶴姫に続けとばかりに駆け出した。毛利軍に斬り込んでいった。
「鶴姫は銀の采配を打ち振って、“かけ破れ、ものども”と大声で鼓舞し、死を恐れぬ女軍たちに、寄せ手は混乱し数十人が討たれ、手傷を追う者も多数に上った。この時、女軍の何人かが討たれた。敵将の乃美宗勝は相手が女性と分かるとビックリし、戦闘停止を命じた。その馬上の宗勝を見つけて、鶴姫は一騎打ちを申し出る。だが宗勝は“御身は強きにせよ、女ならば相手はできぬ”と逃げる。追う鶴姫に横合いから雑兵が斬りかかった。その7,8人を長刀でなぎ伏せるが、自らも浅手を負った」

 女軍たちに退却を命じ、城に引き返した鶴姫。
「鶴姫は夫高徳のもとに戻ると、一緒に南無阿弥陀仏を念じ、太刀をくわえ、そのまま身をうつ伏せにして命を絶った。妻の最期を見届けて高徳も切腹し、詳細は伝わらないが女軍戦士も城主夫妻を追って自刃したようだ。城内北二の丸跡に城主夫妻とともに34人の女軍の墓がある」
 乱世の女性らしく武を貫き、夫への愛に殉じた女戦士はいまなお場内に眠る。

上野隆徳と鶴姫の墓の周りに34人の女戦士の墓が並ぶ。写真/フォトライブラリー

『歴史人』2018年5月号「城の合戦と悲劇」より〉