日本人が日常的に用いる元号だが、海外の人にとっては摩訶不思議な制度である。明治以降は天皇一代につき一元号と定められたが、古来にはさまざまな理由で改元が行われていた。今も謎のベールに包まれている改元の過程など、元号をめぐる歴史秘話をひもとく。

◆宮内省と内閣が新元号案を別々に準備していた

 

「昭和」の62年と14日間というのは、世界史上もっとも長く用いられた元号である。2位と3位はともに中国清朝の「康熙(こうき)」(61年間)と「乾隆(けんりゅう)」(60年間)だ。そんな昭和の始まりには、じつに不可思議な逸話が残されている。それは「大正」の次の元号は、本当は「光文」であったというものだ。
 もともと病弱であった大正天皇は、しばしば公務を休むことがあり、大正10年(1921)からは皇太子の裕仁親王が摂政を務めていた。大正15年(1926)の秋になると、天皇の容態は悪化し、新聞各紙は連日その様子を報じていた。そして同年12月25日、東京日日新聞は号外で大正天皇崩御を知らせるとともに、新元号は「光文」に決定したと報じたのだ。

 

 ところがその数時間後、宮内省は新元号が「昭和」に決定したことを発表する。世紀の大スクープと思われた記事は、一転して歴史的大誤報となった。じつは本命であった光文が新聞で発表されたため急遽、次点の昭和に変えたというのが真相だともいわれるが…。『歴代天皇・年号事典』の編者・米田雄介さんはこう語る。
「宮内省は早くから吉田増蔵さんに元号の草案を依頼していました。吉田さんは図書寮編修官をされていて、漢学者として大変優れた方でした。吉田さんは当初、元号案を100ぐらい考えたようです。それから順次検討して、少しずつ絞り込んで行きました。その中に昭和は入っていましたが、光文はなかったのです。一方、内閣でも総理大臣官房総務課事務嘱託の国府種徳(こくぶたねのり)さんが中心となり元号案を進めていました。その国府さんが考えていた案の中には光文があったのです」。

 推察すれば、宮内省とは別に内閣が進めていた案が、何らかの理由で東京日日新聞の記者に漏れた可能性が大きい。今となっては確かめられないが、光文が選ばれる可能性は低かったと思われる。

〈雑誌『一個人』2018年5月号より構成〉