日本の軍部独走・侵略史観に基づく悪玉扱い、逆の「日本は悪くなかった、悪いのは周りの大国だ」という日本小国史観、海外大国による外圧・陰謀史観。これらの歴史観はすべて間違いだ。『学校では教えられない 歴史講義 満洲事変 ~世界と日本の歴史を変えた二日間 』を上梓した倉山満氏が満洲事変の真実に迫る!

■約束を破る相手に日本は約束を守り続けた。

 一九〇四年に日露戦争が始まります。この戦争で朝鮮と満洲が戦場になりました。清も朝鮮も、日露戦争に中立を宣言しました。中立を完遂するためには、日本とロシアの両方を追い出さなければいけませんが、そんな力は清にはもはやありません。もちろん朝鮮にもありません。清としては、朝鮮の程度まで落ちぶれた。どん底です。

 一方の日本は快進撃で、朝鮮半島北部の三十九度線どころか満洲までロシアを押し返します。

 日本にとって、日露戦争は、「これで日本は安泰だ」が実現した戦いでした。

 一九〇五年の日露戦争終了時、満洲は、清朝の主権が及んでいるとはとても言えない状態でした。実質的に、清が支配できる土地ではなくなっていました。支配できないとは、警察が存在しないということです。満洲は、馬賊とか匪賊と呼ばれるギャングどもが暴れまわる無法地帯となりました。漢民族も大量に流入して混乱に拍車をかけていきます。

 当時、奉天、吉林、黒竜江の三省を東三省と呼んでいました。ほぼ現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省にあたります。熱河をいれて四省と呼ぶこともあるのですが、一般的に満洲といえば、奉天省、吉林省、黒竜江省の三省からなる範囲です。

満洲皇帝時代の愛新覚羅溥儀

 ついでのような扱いの熱河ですが、ここは満洲族父祖の地でした。副都扱いの地でしたし、清朝第四代・康熙帝が夏の政務に備えて熱河避暑山荘などという離宮を造営した避暑地でもあります。清朝最後の、また満洲国初代にして最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が熱河を欲しがったのには、こういった背景があります。

熱河避暑山荘(冷枚による避暑山荘の図)

 

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