混乱する幕末京都で鉄の剣客集団新選組の勇名は、日本最古の公許遊廓・島原にも轟いていた。綺羅星のような女性たちから想いを寄せられた隊士たち。
彼らは花街にどのような足跡を残していったのか。忠義に生きた男たちの知られざる素顔に迫る。

土方はラブレターをまとめて小冊子にしていた!

 土方歳三は、元治元年(1864)9月に、常に支援を受けていた武州小野路村名主の小島鹿之助に意外なものを贈った。仙台市博物館に現存する送り状には「婦人恋冊」とある。贈ったのは自分に寄せられた恋文を1冊に綴じたものだった。

 その1年前の11月、土方は小島鹿之助に手紙を送り、珍妙な追伸文を認めていた。京都や大坂の花街で自分を慕う女性たちの源氏名を、町ごとに紹介していったのである。

 島原では花君太夫と天神の一之。祇園では3名の芸妓。北野では舞子の君菊と小楽。大坂新町では若鶴太夫ほかに2、3名。北(曾根崎)新地では沢山いて書き尽くせない。

 土方はこう認めた。冊子仕立ての恋文の送付は、1年前の報告の物証でもある。美男の土方に、心を寄せる花街女性は少なくなかった。

 慶応3年(1867)時点での、京都の花街女性約2400名の源氏名を街や店ごとに綴った『四方のはな』と題する資料がある。

 筆頭に載る島原の置屋の中、輪違屋の抱えとして花君太夫と天神(太夫に次ぐ位の女性)の一之が確認でき、北野の花街上七軒町にある大津屋の抱え芸妓として、君きくと小楽の名がある。手紙から5年後の資料のため、舞子の2人は艶やかに成長していたのだろう。

 新町は寛永期頃(1630〜40前後)に、大坂に点在する花街を統合して成立した。『守貞謾稿』が伝える天保末年(1840以降)の記録では、太夫らを抱える2軒の太夫置屋と、天神や芸妓を抱える折屋など15軒の置屋、そして吉田屋など5軒の揚屋と、48軒の茶屋が軒を連ねていた。

 万延元年(1860)の新町の女性名鑑には、天神の位に2名の若鶴が確認できる。その後、いずれかが太夫となり、土方と縁を結んだのだろう。ともあれ、土方が国許に源氏名を伝えた京坂の女性5名はすべて実在したとみられる。

 曾根崎新地には、幕末期、新町の倍近い数の芸妓がいた。女性たちは新町を上回る勢いで、美男の土方に心を寄せたのだろうか。

 土方には、江戸に三味線販売職の琴という許嫁がいたが慶応元年に東帰した際、婚約を解消したと伝わっている。そんな彼が京都で愛妾とした女性がいた。甥の佐藤俊宣が伝えたものだが、名は君寉といい、北野上七軒町の芸妓だった。佐藤は本人に逢うべく明治22年に来京したが、3年前に没していた(『西遊紀行』)。小島家の記録には、土方の愛妾が女児を出産したが夭折したともあり、君寉が該当女性だった可能性もある。

 君寉を、北野上七軒町繋がりから舞子の君菊と同一人と見る向きもあるが、花街女性にとって源氏名は、唯一絶対のものであろう。

 前記『四方のはな』には、同じ北野の花街である下之森の「いかや」の芸妓として「君つる」の名が載る。上七軒と下之森は500メートルほどの間近い距離にある。彼女こそ綺羅星のライバルに勝ち抜き、土方歳三の思いを受け入れた女性ではなかったろうか。そして愛しきサムライとの永訣後、明治の上七軒町で、再び花を競ったのではないだろうか。

 土方歳三は、元治元年(1864)9月に、常に支援を受けていた武州小野路村名主の小島鹿之助に意外なものを贈った。仙台市博物館に現存する送り状には「婦人恋冊」とある。贈ったのは自分に寄せられた恋文を1冊に綴じたものだった。

 その1年前の11月、土方は小島鹿之助に手紙を送り、珍妙な追伸文を認めていた。京都や大坂の花街で自分を慕う女性たちの源氏名を、町ごとに紹介していったのである。

 島原では花君太夫と天神の一之。祇園では3名の芸妓。北野では舞子の君菊と小楽。大坂新町では若鶴太夫ほかに2、3名。北(曾根崎)新地では沢山いて書き尽くせない。

 土方はこう認めた。冊子仕立ての恋文の送付は、1年前の報告の物証でもある。美男の土方に、心を寄せる花街女性は少なくなかった。

 慶応3年(1867)時点での、京都の花街女性約2400名の源氏名を街や店ごとに綴った『四方のはな』と題する資料がある。

 筆頭に載る島原の置屋の中、輪違屋の抱えとして花君太夫と天神(太夫に次ぐ位の女性)の一之が確認でき、北野の花街上七軒町にある大津屋の抱え芸妓として、君きくと小楽の名がある。手紙から5年後の資料のため、舞子の2人は艶やかに成長していたのだろう。

 新町は寛永期頃(1630〜40前後)に、大坂に点在する花街を統合して成立した。『守貞謾稿』が伝える天保末年(1840以降)の記録では、太夫らを抱える2軒の太夫置屋と、天神や芸妓を抱える折屋など15軒の置屋、そして吉田屋など5軒の揚屋と、48軒の茶屋が軒を連ねていた。

 万延元年(1860)の新町の女性名鑑には、天神の位に2名の若鶴が確認できる。その後、いずれかが太夫となり、土方と縁を結んだのだろう。ともあれ、土方が国許に源氏名を伝えた京坂の女性5名はすべて実在したとみられる。

 曾根崎新地には、幕末期、新町の倍近い数の芸妓がいた。女性たちは新町を上回る勢いで、美男の土方に心を寄せたのだろうか。

 土方には、江戸に三味線販売職の琴という許嫁がいたが慶応元年に東帰した際、婚約を解消したと伝わっている。そんな彼が京都で愛妾とした女性がいた。甥の佐藤俊宣が伝えたものだが、名は君寉といい、北野上七軒町の芸妓だった。佐藤は本人に逢うべく明治22年に来京したが、3年前に没していた(『西遊紀行』)。小島家の記録には、土方の愛妾が女児を出産したが夭折したともあり、君寉が該当女性だった可能性もある。

 君寉を、北野上七軒町繋がりから舞子の君菊と同一人と見る向きもあるが、花街女性にとって源氏名は、唯一絶対のものであろう。

 前記『四方のはな』には、同じ北野の花街である下之森の「いかや」の芸妓として「君つる」の名が載る。上七軒と下之森は500メートルほどの間近い距離にある。彼女こそ綺羅星のライバルに勝ち抜き、土方歳三の思いを受け入れた女性ではなかったろうか。そして愛しきサムライとの永訣後、明治の上七軒町で、再び花を競ったのではないだろうか。