人を特定するためにマイナンバーが採用され、元来の個人名のような味わいや個性がなくなった。同様に四桁の数字の西暦が主流となった世界で、表意文字の元号を何故継承すべきかなのか、漢字二文字の持つ歴史と意味について学んでいこう。

■元号の考案者は誰なのか?

 大宝元年(701)に制定された大宝令で、元号は初めて法制化された。その改元手続きは、平安時代にまとめられた源高明の『西宮記』や大江匡房『江家次第(ごうけしだい)』といった儀礼書に記されており、そのしきたりが後世に受け継がれていく。
 天皇の命により、大臣は文章博士や式部大輔に元号の案を提出させる。この案を提案するにあたり、彼らはこれまでの元号案の由来などを調べ上げることになる。その調査を終え、文字案を考えて出すことを「勘申(かんじん)」という。「勘申」された候補は、大臣や大納言、中納言、そして参議といった公卿による会議にあげられ、ひとつずつ議論が交わされる。この会議を「難陳(なんちん)」という。
 ここでは批判的な意見や弁護的な言い分などが激しく議論され、最終的に2つに絞られた案が天皇へ上秦された。天皇はこのうちのいずれかに絞るように指示して案を戻す。
 この手続きを経た元号は、改元勅書によって公布される。武家政権が誕生してからは、幕府が積極的にかかわることも増えたが、最終決定は朝廷と天皇がしてきた。

 

「勘申」するのは文章博士や式部大輔という官僚職であり、菅原氏や大江氏が担ってきた。
「菅原道真を祖とする菅原氏は、やがて高辻家や唐橋家に分かれます。さらに分家が枝分かれして、幕末には6家ありました。一見、様々な家系のようにも見えますが、実は今も学問の神様と仰がれる道真の子孫ばかりで占められている
は面白いことですよね」と『皇位継承のあり方』(PHP新書)の著者・所功さんは話す。それだけ元号を決めるためには、学問に長けている必要があった表れなのかもしれない。

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