日本一高い場所に現存天守を持つ「備中松山城」。織田信長に与した三村氏と、毛利軍との激戦が繰り広げられた城でもある。『歴史人』5月号では、別名「高梁城」と呼ばれる備中松山城の歴史や歴代城主、縄張り図などを解説している。

日本一高所にある備中松山城の現存天守。写真/フォトライブラリー

「現存する12天守のうち、唯一の山城が、ここ備中松山城だ。標高430mの臥牛山の上に天守を擁し、日本一高所にある現存天守として名高い。“こんなところに天守が?”と、誰しも驚くような存在感がある。
 この城は鎌倉時代の延応2年(1240)、相模出身の豪族・秋庭三郎重信が砦を築いたことに始まる。その後、城主を務めた高橋氏や上野氏などが砦を拡張し、城塞・山城として巨大化していった。
 戦国時代になると、地元備中の大名・三村氏の拠点として使用され、数々の戦いを繰り広げる舞台となった。天正3年(1575)までの「備中兵乱」によって三村氏は滅び、松山城は毛利氏の居城になった。

 関ヶ原の戦い後、何代か城主が入れ替わり、寛永19年(1642)、水谷勝隆が入封。次代の勝宗が大修築を行ない、天和3年(1683)ごろまでに現在の天守が完成した。
 江戸時代中期から幕末までは板倉氏が8代にわたって統治し、明治を迎えた。明治6年の廃城令で山麓の政庁は取り壊されたが、天守などは山上にあったことが功を奏し破却を免れた。昭和初期に荒廃していた山上の建物を高梁町が修復。現存天守として今に伝わることとなった」(文/上永哲矢・監修/小和田泰経)

『歴史人』2018年5月号「現存十二天守特製ガイドブック」より〉