3度遷都し、即位20年目に大和入りをした謎の大王「継体天皇」。その王位継承のミステリーに迫る連載、第1回。
継体天皇像/標高約100mの足羽山(福井県)、山頂にある足場山公園に立つ。継体天皇が越前三国で育ったという『日本書紀』の記述にちなんで大正年間に建てられた。

他の天皇に類を見ない、超「傍系」からの即位

『古事記』は、子供のいない武烈天皇が亡くなり、適当な皇位継承者が途絶えてしまったあと、継体天皇が即位した経緯を次のように記す。

 天皇既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太天皇(応神)の五世の孫、遠本杼命を近淡海国より上り座さしめて、手白髪命に合わせて天下を授け奉れり。
(武烈天皇が崩御されて皇位を継ぐべき皇位がいなくなってしまった。そこで応神天皇5世孫にあたる継体天皇を近江国より上京させて、手白髪命に娶わせて天下をお授けした)

「応神5世孫」、つまり応神天皇から数えて5代目に当たる遠本杼命を近江から上らせ、武烈天皇の姉の手白髪命と結婚させて、皇位に即かせたという。これが第26代継体天皇である。5世孫ということは、父も祖父も曽祖父も天皇ではない。これほど遠い傍系の王族が天皇になった例は、今日に至るまで他にないことである。しかも継体の出身地は畿内に隣するとはいえ、近江という畿外の地であった。
『日本書紀』にはより詳しい記述がある。ここには近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)三尾の別業(別宅の意)で生まれたが、幼少期に父が亡くなったので母の実家のある越前三国(現在の福井県坂井市)に移り、ここで長じたとある。父の名前は彦主人王(ひこうしおう)、母の名前は振媛(ふるひめ)という。『古事記』が応神から継体に至る4代の祖先の名を全く記さないのと比べると、『日本書紀』は両親の名前だけは記しているが、それでも祖父より前の3代の名は記されていないのである。

 

『日本書紀』は大連の大伴金村や物部麁鹿火らの間で、継体よりも先に丹羽郡桑田郡(現在の京都府亀岡市)にいた仲哀天皇5世孫の倭彦王が次の大王皇甫に選ばれたと記す。しかし、この王は自分を迎えに来た使者を見て怖れをなして行方不明になってしまった。この失敗を受けて次に候補に選ばれたのが継体だった。最初は逡巡していた継体だったが、かねて知り合いであった河内馬飼首荒籠が、大臣・大連らとの間の橋渡しをし、ついに即位を決意する。そこで越前三国から河内国から河内国樟葉(現在の枚方市)に赴き、ここで即位したという。

 その後、即位5年目に山城筒城(現在の京都府京田辺市)、12年に弟国(現在の京都府向日市・長岡京市)に遷都し、20年に大和の磐余玉穂宮(現在の奈良県桜井市に入った。なぜ大和に宮を置くのに20年もかかったのか。反継体勢力が大和盆地にいたからではないか、という説もある。

 出自から即位の経緯、その晩年に至るまで継体を巡る謎は尽きない。”謎の大王”と呼ばれる所以である。