3度遷都し、即位20年目に大和入りをした謎の大王「継体天皇」。その王位継承のミステリーに迫る連載、第3回。
継体天皇像/標高約100mの足羽山(福井県)、山頂にある足場山公園に立つ。継体天皇が越前三国で育ったという『日本書紀』の記述にちなんで大正年間に建てられた。

王家は複数あった? 今なお論争が続く継体天皇の出自

「継体天皇は王族の血をひいていない地方豪族だ」とする説が戦後登場した一方で、近年盛んに主張されているのが、継体朝のころにはまだ大王を輩出する王家は一つに限定されていなかった、という説である。当時はまだ血統よりも個人の政治的・軍事的能力が優先され、これらが傑出していれば大王に選ばれたというのである。もしそうであるならば、継体が王族の血をひかない地方豪族であったとしても不思議はないことになるだろう。
 このように見る根拠は、5世紀の倭の五王の続柄を記す『宋書』倭国伝にある。同書は、倭王讃の「弟」が珍、済の「世子」が「興」、「興」の弟が「武」であると記す。しかし「珍」と「済」の続柄については触れていない。そこで二人は赤の他人であり、当時は王家にも「讃―珍」の系統と「済―興・武」の系統と、「倭王を出す二つの血縁集団」が存在し、王統は必ずしも単一の集団に特定されていなかったというのである(鈴木靖民氏・仁藤敦史氏など)。

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