前章で述べた通り、DSM自体は、SSRIが日本で発売されるずっと前の1982年に日本語に翻訳され、日本に入って来ていました。
しかし、実のところ、当時の日本の精神科医は、DSMを精神疾患の診断基準として、まったくと言っていいほど認めていませんでした。
当時日本で主流だったのは、ドイツ流の精神病理学に基づく「従来型診断」です。

 従来型診断では、患者の気分の落ち込みが精神疾患に該当するか否かを厳密に鑑別する努力がなされていました。
そのため、従来型診断に慣れ親しんでいたベテラン精神科医ほど、DSMの「操作的診断」、すなわち患者の訴える症状が精神疾患の特徴的症状に何項目該当するかで診断を下す手法に否定的でした。

 つまり、当時の精神科医の多くは「DSM? あんなアンケート調査のような曖昧なもので精神疾患を鑑別できるわけがない」と思っていたのです。
ただし、従来型診断で精神疾患を鑑別すると言っても、それは大変難しい作業であり、精神科医の技量によって診断に差が出てしまう(病名が異なる)というのが現実でした。

 一方、DSMに基づけばそのように医師の個人的能力によって診断に差が出ることはありません。
極端な話、素人でもかなりの確率で精神科医と同じ病名を導き出せます。
ようするに、精神病理学に基づく従来型診断は、経験を積んだベテラン精神科医でも難しく、DSMに基づく操作的診断は、経験の浅い若手の精神科医でも簡単なのです。

 そのため、日本でメンタルヘルス対策の需要が高まるにつれ、日本の精神医学界は、若手医師を中心に、DSMのわかりやすさ・簡単さに傾いていきました。

 ちなみに、そうした経緯もあって、現在でも年配の精神科医の中には、DSMに否定的な方が少なからずいます。

(取り上げる事例は、個人を特定されないよう、実際の話を一部変更しています。もちろん、話を大げさにするなどの脚色は一切していません。また、事例に登場する人名はすべて仮名です。本記事は「あなたは“うつ”ではありません」を再構成しています)。

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