伊能忠敬は、初の日本地図を作成した偉業もさることながら、凄かったのはそれだけではなかった。経営者、指導者、アイディアマン、勉強家という優れた資質を兼ね備えていたという、その人物像に迫る。

■頼りない役人を尻目に佐原の人々から全幅の信頼

 

「忠敬は商才に長けていただけではなく、飢饉で困窮する人々に、伊能家が備蓄していた米を惜しみなく分け与えた篤志家でもありました。こうした貧民救済の発想は、忠敬が考える名主としてのあり方に則ったもので、リーダーとして佐原の人々から多くの支持を得たのです」と語るのは、伊能忠敬記念館で学芸員を務める山口眞輝さん。
 婿養子として伊能家に入ったことから、図らずも同家の当主と佐原の名主を務めることになった忠敬だったが、次第に指導者としての自覚が芽生えてくる。それは家族や使用人、伊能家の人たちに人並みの生活を保障し、佐原の人々が豊かな生活を送れるよう、地域の環境を整備することだった。

 特に忠敬が痛感したのは、非常時における指導者としての対応である。天明の大飢饉では、幕府も領主も全く当てにならないことが露呈した。不測の事態が起きた際には、村方後見役である伊能家と永沢家が自分たちの力で問題を解決し、地域を救うという責任感である。困窮する人々のために、忠敬は手持ちの食糧や金を放出するのを厭わなかった。
 これは、忠敬が施した米や金は伊能家だけのものではなく、地域で共有する資源である、という考えに基づく。伊能家は単なる地域の共同資源の預り人に過ぎず、非常時にそれを分かち合うことによって、人々は地域の共同体の一員であることを自覚するようになると、忠敬は考えたのである。天明の大飢饉の際、困窮した町民や農民の不満が爆発し、江戸で打ち壊しが頻発した。佐原でも一揆が起こるのではないかと周囲は不安を抱き、忠敬に進言したが、「普段、施しを与えている農民が恩義を感じて、一揆を防いでくれる」と取り合わなかった。

 この他にも、忠敬は地頭と交渉して年貢を下げたり、村同士のいさかいを仲裁するなど、地域の人々のために尽力した。一方、佐原の支配者たる役人たちは行政能力も財力もないという体たらくで、忠敬や永沢家に金を無心するばかりだった。役人が存在感を失う中、忠敬は佐原の実質的な指導者として人々の信頼を勝ち取ったのだ。

 
次のページ 忠敬のリーダーシップが分かる3つの事件