初の日本地図を作成した偉業もさることながら、忠敬が凄かったのはそれだけではなかった。
経営者、指導者、アイディアマン、勉強家という優れた資質を兼ね備えていたのだ。

 弟子入りからわずか5年で、幕府認可の測量士となる

 

 50歳で隠居した忠敬は、江戸・深川に居を構え、念願だった暦学の研究に没頭する日々を送った。
「普通はリタイアしたら楽隠居ではないですが、好きなことをしながら、もっと悠々自適に過ごしますよね。忠敬のように学問を究めたり、ましてや17年もかけて測量の旅に出たりなんて、現在ではちょっと考えにくい。ただ、忠敬に
とっては、それが〝好きなこと〞だったんでしょうね」
 そう語るのは、伊能忠敬記念館で学芸員を務める山口眞輝さん。
 忠敬は幼い頃から勉強が大好きで、数学の得意な寺の住職に付いて半年間、学んだこともあった。また、天文学にも興味を持ち、星ばかり眺めていた。婿養子として伊能家の当主となった後も、これらの学問を独学。蔵書は5000冊あったという。測量技術も、新田開発や川普請などの仕事で、少しずつ身につけていった。従って、忠敬が幕府天文方の高橋至時に弟子入りした時点で、すでに暦学についてそれなりの知識があった。
「通常、至時は弟子に対して、まずは中国の暦法を教え、それから西洋の暦法を教えるという段階を踏んでいました。しかし、至時は忠敬に対して、中国の暦法は学ぶ必要はなく、西洋の暦法を漢文で著した『暦象考成』という本から
学ぶようにと指示したのです」。
 そして、至時に弟子入りしてから、わずか5年後の寛政12年(1800)には、幕府認可の測量者として、蝦夷地へ向かうことになる。素養があったにしても、いかにも短期間である。やはり一流の勉強家なのか。山口さんは、次の
ように語る。
「本人の旺盛な知識欲もあったにせよ、見過ごされがちなのが、忠敬には多くの時間とお金があったということ。自宅に高額な測量器具を揃え、学問に没頭する環境を自ら整えました。後世の我々には忠敬の偉業は畏れ多いですが、本
人としては自由に時間とお金を使いながら、好きなことをやっていただけかもしれませんね(笑)」。

〈雑誌『一個人』2018年6月号より構成〉