岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!

 裏街道関ヶ原合戦・東本願寺(真宗大谷派)開祖・本願寺教如の危機一髪物語の7回め。

 さて、関ヶ原合戦に先立ち、本願寺教如(後年の真宗大谷派・東本願寺始祖)は徳川家康支持を全面に打ち出し、このため石田三成の恨みを買います。
本願寺教如は小山会議ののち、単身で先に京都に戻ろうとしますが、石田三成が美濃で待ち伏せ、教如の暗殺をはかります。
 教如は石田三成の繰り出す暗殺団をかわしながら国見峠越えの道をとって近江入りしました。

 この当時の近江の寺院は城郭の様相を呈していました。
 また、教如は十代のころ、石山本願寺(いまの大阪城)に立てこもり、織田信長と十年間にわたって戦い続けた猛将でもありました。
 近江は一向宗(浄土真宗)の中興の祖・蓮如の伝道経路で一向宗の寺院が多い。織田信長との決戦でも、地元の僧侶や若者たちが石山本願寺にはいって教如とともに織田信長と戦いました。
 そんなかれらが近江の地に戻っていました。

 代表的な僧侶で武将は前回のべた本誓寺慶信坊。かれが声をかけ、湯次方(ゆすきほう)と呼ばれる一向宗門徒軍団が琵琶湖湖北・三十三寺の信徒を集合させます。
 写真はその三十三寺のひとつ、浄願寺。写真は公式サイト(知足山浄願寺:http://www.jyoganji.jp/)からお借りしました。

 石田三成、まあ、合戦下手で空気を読まない人なんですが、ここでもそんな性格をいかんなく発揮します。
 徳川家康が関ヶ原に向かっていてくっそ忙しい時だというのに、わざわざ軍勢を割いて北近江にむかわせ、交戦となりました。──暗殺じゃなかったんかい。

 双方、死者多数となって混戦となっているとき、慶信坊は混乱に乗じて教如を戦線から離脱させます。
 このとき慶信坊と教如は琵琶湖を横断する水路をえらびます。陸路だと、石田三成の居城・佐和山城にモロにぶつかりますから。

 で、琵琶湖東岸にある早崎湊につきます。いまの長浜市早崎にあたります。

 

 ここで教如と慶信坊主従は琵琶湖の船頭・又兵衛の漁船に乗り込みます。
 漁船といっても120石積・米俵が500俵積められるおおきなものだったとのことで、漁船というよりは湖上水運の貨物船だったのでしょう。ふたりは船底に隠れました。
 これは写真もイラストも入手できなかったので文字でごかんべんを。

 さて、教如と慶信坊が舟に乗りこもうというそのとき、石田三成は徳川家康の計略にひっかかり、居城の大垣城から西にむかい、美濃・関ヶ原で徳川家康の迎撃態勢をととのえます。
 写真は毎年秋におこなわれる関ヶ原まつりの光景。地方のイベントとしてはめずらしいほど大規模な甲冑武者があつまるのが楽しいっす。

 

 そんなこんなで教如は琵琶湖を西に抜けるのですが、そこでまた一難──ってところで、続きは次回。