3度遷都し、即位20年目に大和入りをした謎の大王「継体天皇」。その王位継承のミステリーに迫る連載、第4回。
継体天皇像/標高約100mの足羽山(福井県)、山頂にある足場山公園に立つ。継体天皇が越前三国で育ったという『日本書紀』の記述にちなんで大正年間に建てられた。

継体天皇の支持基盤は、畿外東・北方地域の王族だった

『古事記』は継体天皇を「近淡海国」から上京して王位に就いたと記し、『日本書紀』は近江国高島郡三尾で生まれ、幼少期に母の生家のある越前三国に移り、即位までそこで暮らしたと記す。
 これに対し近年、継体の出身地を摂津や河内に置く説がある。『日本書紀』に父が居住したところとされる「近江国高島郡三尾之別業」はあくまで「別業」であって、本拠ではないとも読めること、その墓が摂津国嶋上郡の「三嶋陵」(現在、大阪府高槻市の今城塚古墳)にあることなどがその根拠である。しかし近江や越前で育ったと説く『記・紀』の所伝を覆すほどの説得力には乏しく、継体の后妃から推測しても、やはり畿内よりも近江や越前、尾張などの勢力が彼の地盤だったことは明らかである。

 

 継体の后妃は『古事記』に7名、『日本書紀』に8名みえる。このうち彼にとって最初の后妃であったと思われるのが、三尾氏出身の「若比売」であった。これは、彼女の産んだ皇子の名が「大郎子」という長男を意味するものであることから推測できる。また三尾氏は、継体の母「振媛」の出身氏族でもあった。彦主人王と継体、この父子は2代にわたってこの三尾氏と婚姻関係を結んでいるのである。なおこの氏の本拠について、越前にも「三尾」という地名があるため越前の豪族とする説があるが、継体の父が居住し、継体の出生地でもあった「近江国高島郡三尾」に、この豪族が居住していたことは動かないだろう。
 継体は即位にあたって武烈天皇の姉の手白髪皇女を「皇后」としたと『日本書紀』にある。ではそれまで彼が正妃としていたのは誰だろう。『日本書紀』に「元妃」とあり、のちの安閑・宣化2人の天皇の母となった尾張連草香の娘、目子郎女とみられる。尾張には当時、東海地方最大の前方後円墳が築かれていた。熱田神宮の隣に位置する、全長152メートルの断夫山古墳である。継体にとって尾張連は心強い姻戚だったに違いない。

 このように近江から若狭、越前、美濃、そして尾張、こういった畿外東・北方地域の王族・豪族が継体の支持基盤だった。では継体の即位を主導したのは彼ら地方の勢力だったのだろうか。『日本書紀』には武烈天皇が崩じたのち、最初に次期大王に推されたのは継体ではなく、仲哀天皇五世孫の倭彦王だったとある。迎えに来た使者を見て逃げ出したという倭彦王のエピソードは、明らかにのちに造作されたものであろう。かつては存在自体も架空ではないかと私は考えていたが、丹波国桑田郡と具体的な地名まであることからすると、本当にこの地に継体と同じような王族がいて、次期大王の候補に挙げられていた可能性はあるのかもしれない。