3度遷都し、即位20年目に大和入りをした謎の大王「継体天皇」。その王位継承のミステリーに迫る連載、第6回。
継体天皇像/標高約100mの足羽山(福井県)、山頂にある足場山公園に立つ。継体天皇が越前三国で育ったという『日本書紀』の記述にちなんで大正年間に建てられた。

世紀の王族は一個の自立した親族集団になっていなかった!

 『日本書紀』は武烈天皇の崩御により、「元めより男女無くして、継嗣絶ゆべし。(もともと男子も女子もなく、継嗣は絶えるはずであった)」と言い、そのあと見つかった候補者が、仲哀天皇の五世孫の倭彦王と応神天皇五世孫の継体だったと記す。これは逆にいうと、応神よりも後の世代の天皇の後裔が「絶」えていたことを意味しているのだろう。

 たしかに『古事記』・『日本書紀』を見ると、応神の子の仁徳から武烈までの天皇の後裔を称する氏族も王族もいない。これは、武烈の崩御によって王統男子が絶えようとしたという『記・紀』の記述と、確かに整合しているようにみえる。そして本当に仁徳以降の天皇の後裔が絶えたのであれば、仁徳の父である応神後裔の継体が血統の上でも最も天皇にふさわしいことになる。

 

 しかし本当にそのような事態が起きたのだろうか。たしかにこの前後の王族には子どものいない天皇や、いても女子ばかりで男子がいない天皇が多い。たとえば『日本書紀』では武烈天皇の兄弟姉妹は全部で7人伝えられているが、武烈以外は皆女子である。反正天皇も4人の子どものうち3人まで女子が占めている。子どものない天皇は武烈以外にも安康、清寧、顕宗と、この頃4人も出ている。しかし現在のように一夫一婦制ではない時代に、仁徳から武烈まで約4世代の間の男子王族が一人もいなくなる、といったことが起こりうるだろうか。この辺りの『記・紀』の系譜や王位継承に関する伝承には、正直なところ疑念の残るのも事実である。

『記・紀』の諸伝承は、この当時皇子たちが王位継承をめぐって激しい争いを展開したことを伝えている。特に5世紀後半から末にかけて在位した雄略天皇は、ライバルとなる兄弟や従兄弟を次々と殺害した。その結果、彼の時代、大王は確かに専制的な権力を握ったが、これによって王族の数は減ってしまい、彼の没した5世紀末には王権はたちまち衰弱したようにみえる。

 王位を狙う当時の皇子たちの多くは、母方の豪族に依存し、彼らの支援を受けて、ライバルたちと争った。そのため、異母兄弟や従弟など父方の親族は警戒すべき敵であり、むしろ母方の親族こそミウチという意識だったのだろう。こうした経緯からすると、5世紀の王族はいまだ一個の自立した親族集団にはなっていなかったように見える。同族意識の希薄な脆弱な体質を残していたのだろう。このことも5世紀の王統がおのずと衰退し、地方にいた継体系の新王統に取って代わられた大きな理由といえるだろう。