3度遷都し、即位20年目に大和入りをした謎の大王「継体天皇」。その王位継承のミステリーに迫る連載、第7回。
継体天皇像/標高約100mの足羽山(福井県)、山頂にある足場山公園に立つ。継体天皇が越前三国で育ったという『日本書紀』の記述にちなんで大正年間に建てられた。

継体の父など地方王族は
経済力を強めていた

 中央の王族たちが度重なる王位継承争いに巻き込まれ、その結果次第に数を減らしていったのと対照的に、地方に土着した傍系王族は王位継承の可能性こそ失ったけれども、在地において次第に経済力を強めていったとみられる。近江国高島郡三尾で暮らしていた継体の父彦主人王もそうした地方王族のひとりだったのであろう。

 しかし彼はもともとこの湖西の地に定着していたわけではなかったようだ。『日本書紀』の允恭天皇七年条の記事をみると、彼の祖父意富富杼王らは近江国坂田郡にいたと推測される。允恭天皇に見初められた意富富杼王の妹「衣通郎女」が、この「近江坂田」の地から入内したとあるからだ。「近江坂田」といえば、継体の后妃のなかにこの地の出身の王族がいる。息長真手王の娘と坂田大俣王の娘である。おそらく継体一族の父系親族に違いないだろう。継体の父彦主人王も、もとはこの坂田郡に居たのが、のちに琵琶湖の対岸にあたる高島へ移住したものとみられる。

 

 湖西の高島から西北へ、のちに鯖街道とよばれる山間の道を行くと、日本海に面する若狭に通じる。若狭は、当時日本海域を代表する先進地域であり、対外的な窓口でもあった。彦主人王にとって、そこに通ずるこのルートに居を定めたことは大きかったに違いない。高島には若狭からやってきたであろう渡来人集団も共存していた。地元の有力豪族三尾氏の本拠地に寄寓した王は、そこで彼らとも出会ったはずだ。継体はこうした国際的な雰囲気のもとで育てられたのであった。

 5世紀頃から、それまでの鉄製の武器・馬具に代わって、大陸伝来の金銅製の冠や大刀、装身具が各地の首長に珍重されるようになる。ちょうどこのころ専制王権を樹立した雄略は、初の国産の金銅製冠を作らせた。もとになったのは、熊本県江田船山古墳の被葬者に贈られた広帯二山式といわれる冠である。これを祖形にアレンジを加えた国産品が次々と作られ、九州有明海沿岸や若狭など大陸に近い地域の豪族に多く配布された。

 その後、継体もまたこの冠を好んで配布するようになる。継体は、これを自らの威信財として支持者たちや身内に配布したらしい。捩じり環頭太刀と呼ばれる特徴的な形の柄をもつ太刀も、同様の用いられ方をしたようだ。