迷宮入りとなってしまった、歴史上の数々の「事件」。その真相とは? そして犯人はいったい誰なのか? 小和田泰経氏が“歴史警察”となり、残された手がかりから真相に迫る連載「あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察」。今回は「千利休自害の謎」を取り上げる。

◆千利休を切腹に追い込んだ犯人は石田三成か?

 

 豊臣秀吉の茶頭として君臨していた千利休が天正19年(1591)2月28日、突然、秀吉からの命令により切腹を命じられた。利休は堺の豪商田中与兵衛の子として生まれ、通称は与四郎といい、臨済宗を信仰して参禅したため宗易と号し、禁中茶会の際に居士号として「利休」を与えられたものである。商人であるとともに茶人として活躍した利休は、もう一つ別な顔をもっていた。それは、秀吉の側近だったことである。秀吉は、豊臣政権の役割分担について、「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」(『大友家文書録』)としていた。「宗易」が利休のことであり、「宰相」とは秀吉の弟秀長を指す。秀吉は、豊臣政権において、私的なことは利休を窓口とし、公的なことは秀長を窓口としていたのである。秀吉の弟秀長に匹敵する権力をもっていた利休が、自害を命じられたのだから、ただごとではなかったことは明らかである。

 しかしながら、なにぶんにも突然のことであり、なぜ秀吉が利休に自害を命じたのかもわかっていない。よくいわれているのは、大徳寺の三門(金毛閣)を利休が改修した際、その門の上に自らの像を置かせたことだといわれている。しかし、それが切腹を命じられることのほどなのかということも含め、秀吉の真意は明らかでない。秀吉が利休に自害を命じる理由もないことから、石田三成ら利休と対立した人物の讒言があったともいわれている。それが事実だとしたら、利休は三成によって死に追い込まれたことになるが、それははたして本当のことだったのだろうか。