「神懸り」「仲哀天皇への神罰」など謎につつまれた神功皇后伝説とは? 連載【神功皇后と三韓征伐の 知られざる真実】第1回。
月読神社の月延石  神功皇后には、三韓征伐の際、石でお腹を冷やすことで出産を遅らせた鎮懐石伝説の他に、石を撫でることで、安産を導いた月延石の伝説もある。

■神懸りする巫女的な性格で生命力に満ちあふれた女性

 歴史上の人物で、戦前と戦後とで評価が大きく変わった例は多々見られるが、神功皇后もそうしたなかの一人といえる。現在では、その実在性すら疑われている神功皇后ではあるが、近代においては国民的な女傑として知られ、明治時代には、日本最初の女性肖像紙幣に採用されたほどである。その理由はひとえに三韓征伐をおこなったということに起因し、このことが明治政府の朝鮮半島植民地化の正当性を保証する論理のひとつとされたのである。

 そもそも神功皇后とは、どういう人物かというと、三韓征伐の伝承をふくめて謎につつまれた部分が実に多い。『日本書紀』によると、神功皇后は名を気(息)長足姫尊としている。神功皇后のこの名前は、とても象徴的である。気長とは、近江国の坂田郡にある地名とされているが、それと同時に、気長は「息長」と同じで、息が長い、すなわち生命力にみちあふれ、活力のみなぎった女性ということになる。いかにも三韓征伐をおこなった主人公にふさわしい名前といえる。

 

 神功皇后の父は気長宿禰王とされ、母は葛城高顙媛といわれている。その性格や容姿に関しては、『日本書紀』に幼くして聡明(さと)く叡智(さか)しく」、「貌容壮麗(はなはだかおよし)」と記されている。幼少のときから賢く、美貌であったというのである。

 さらに、こうした性格に加えて神功皇后にはシャーマン、すなわち巫女的な性格もあったと記されている。そして、仲哀天皇2年正月に皇后となった。このとき皇后は24歳であった。

 神功皇后といえば、三韓征伐伝承がまず思い浮かぶが、そもそもこの伝承は、神宮皇后の夫である仲哀天皇のときから始まっている。たとえば、『古事記』の仲哀天皇の段をみると、はじめに仲哀天皇の系譜が記されており、その後の部分は神功皇后による三韓征伐の伝承となっている。 一方、『日本書紀』をみると、仲哀天皇2年の3月に、天皇が紀伊に巡行したさい、九州で熊襲がそむき、これを平定するために穴門に向かう。このとき神功皇后は、角鹿にいたが、急を聞き穴門へとかけつける。このあと、『日本書紀』の記述は、仲哀天皇8年条へとうつるのである。

 そして、8年の9月5日に群臣たちに詔して、熊襲征討についてはかることになる。このとき、神功皇后が神懸かりの状態になって、熊襲は「空国(むなくに)」、すなわち、何もない国であるといい、それよりも金や銀にあふれる新羅を討つべきであると託宣を下す。三韓征伐伝承のスタートである。