神功皇后は初の女帝だった!?『風土記』に残る天皇の表記の謎
月読神社の月延石 神功皇后には、三韓征伐の際、石でお腹を冷やすことで出産を遅らせた鎮懐石伝説の他に、石を撫でることで、安産を導いた月延石の伝説もある。

『風土記』に残る三韓征伐伝説に神功天皇説の秘密が隠されている

 神功皇后は、仲哀天皇の皇后とされているが、あまりにも女傑であるためか、古くから天皇だったのではないかという説がある。
 たとえば、『日本書紀』は原則として天皇ごとにひとつの巻を作るという編纂方針がとられている。この点に注目して神功皇后をみてみると、仲哀天皇の皇后であるのにもかかわらず、天皇と同様に独立した巻が立てられている。すなわち、『日本書紀』の巻9がそれであり、神功紀となっている。この点を重視するならば、神功皇后は、『日本書紀』において天皇と同等の存在とみなされていたことがうかがわれるのである。

 しかし、『日本書紀』では神功皇后の表記はあくまでも皇后であって天皇とは記されていない。これに対して、平安時代に天台宗の学僧である皇円という僧侶によってまとめられた仏教的歴史書である『扶桑略記』には、神功皇后は「神功天皇」として項目が立てられており、女帝の初めであると記されている。8世紀の初めに編纂された『日本書紀』に対して、『扶桑略記』は平安時代の成立であり、しかも個人がまとめた私史であるが、神功皇后を明確に天皇と表記している点はとても興味深い。

 

 神功皇后といえば何よりも三韓征伐伝承ということになり、その出典は、『古事記』、『日本書紀』がまずあげられる。しかし、『古事記』や『日本書紀』とほぼ同じ時期である8世紀にまとめられた『風土記』の中にも神功皇后がいくどか登場し、『古事記』や『日本書紀』とはひと味ちがった神功皇后の三韓征伐伝承を載せている。

 そもそも『風土記』は、713年に出された官命をうけて、国単位で作成されたものである。国単位の編纂ということであるから、おそらくは当時あった60ほどの諸国の『風土記』が作られたと思われる。しかし、現在ではこれらのうち、常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の5か国のもののみがまとまった形で残されているにすぎない。あとは、他の書物に引用される形で断片的に残されたものが50か国ほどあり、これらは逸文と総称されている。

 具体的に神功皇后がどのような形で『風土記』に登場しているかをみるならば、まず、『常陸国風土記』の行方郡の田里の条に、神功皇后の時代に古都比古という人物がいて、3度にわたって韓国へ派遣され、その功績によって田を賜わったことが記されている。ここにみられる韓国への派遣とは、いうまでもなく新羅への出兵のことであり、3韓征伐伝承のことに他ならない。そうすると、田里条で派遣が三度に及んだと記されている点は大変、興味深い。というのは、『古事記』や『日本書紀』では三韓征伐は1回ですっかりかたがついており、それもあっという間のできごとのように描かれている。しかし、『常陸国風土記』では3回となっており、『古事記』、『日本書紀』とは異なった三韓征伐伝承があった可能性をうかがわせている。

(次回に続く)