神功皇后は初の女帝だった!?『風土記』に残る天皇の表記の謎
月読神社の月延石 神功皇后には、三韓征伐の際、石でお腹を冷やすことで出産を遅らせた鎮懐石伝説の他に、石を撫でることで、安産を導いた月延石の伝説もある。

■『風土記』の中で天皇として表記される神功皇后

『播磨国風土記』にも三韓征伐の伝承がみられる。讃容郡の中川里の条がそれであり、神功皇后が韓国に渡る際に、淡路の石屋という所に船を停泊させたとある。このとき、大暴風雨がおこり、神功皇后をはじめ遠征軍はすべてずぶぬれになってしまった。困りはてた軍勢の前に大仲子という者が現れ、苫を用いて小屋を作り、そのおかげでかろうじて神功皇后の一行は救われたと記されている。そこで「天皇」は大中子をほめて苫編首という氏と姓を与えたとある。 

 ここにみられる「天皇」とは、神功皇后に他ならず、したがって、この中川里の条をみる限り、神功皇后は天皇の扱いを受けているといえる。

 

 この点については、『摂津国風土記』の逸文として残されている美奴売松原の条にみられる三韓征伐伝承も興味深い。ここでは、「息長帯比売天皇」が筑紫へ向かう途中、摂津国川辺郡の神前の松原に神々を集めて加護を願ったことが記されている。そのとき、美奴売神も加護を約束し、自分の鎮座している山から杉の木を伐りとって船を造ることを命じたので、その教えに従って船を造り、新羅を征討したとしている。ここにみられる息長帯比売天皇とは、いうまでもなく神功皇后のことである。したがって、美奴売松原条でも神功皇后は、明らかに天皇として扱われていることを確認することができる。

 このように、『風土記』の中にも、神功皇后による三韓征伐伝承が断片的ではあるものの、たしかにみることができる。そして、何よりも興味深いことは、『風土記』にみられるこれらの伝承のいくつかには、神功皇后のことを天皇と表記している場合があるということである。このことは、とりもなおさず、『風土記』の編纂者たちの頭の中には神功皇后を天皇とみる意識があったということを物語っている。

(次回に続く)