長宗我部盛親の首塚(京都 蓮光寺)

「四国王」として興隆を誇った長宗我部氏だったが関ヶ原合戦を機に御家は断絶。盛親は、大坂の陣にその再興を賭けた――。

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は土佐22万石の太守(たいしゅ)であり、官位も侍従と公家成なりし、豊臣秀吉から羽柴(はしば)名字を頂戴していた。 

いわば、押しも押されもせぬ豊臣大名だったが、その家督相続は血塗られたものだった。一時は四国を平定しそうな勢いだった父元親(もとちか)には5人の男子がいた。元親がもっとも期待した長男信親(のぶちか)が豊後戸次川(ぶんごへつぎがわ)の戦いで討死すると、四男盛親を偏愛して後継者にした。

二男親和(ちかかず、香川家)、三男親忠(ちかただ、津野家)は他家に養子に出ているという理由だったが、その裏にはお家騒動がからんでいた。元親は二男親和を推す一門・老臣の吉良親実(きらちかざね)や比江山親興(ひえやまちかおき)らに切腹を命じた。親和はショックを受けて憤死する。盛親は家中粛清の末に家督相続した。このしこりはのちのちまで尾を引くことになる。(続く)

 

文/桐野作人(きりの さくじん)

1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。