長宗我部盛親の首塚(京都 蓮光寺)

「四国王」として興隆を誇った長宗我部氏だったが関ヶ原合戦を機に御家は断絶。盛親は、大坂の陣にその再興を賭けた――。

浪人になった盛親は上京して、上京(かみぎょう)の柳ノ図子に閑居し、剃髪して幽夢(ゆうむ)と名乗った。土佐から妻を呼び寄せ、夫婦と子ども一人の生活で、家来二人がときどき通ってきた。町人の子弟に読み書きを教える寺子屋の師匠で生計を立てたという。

盛親は徳川幕府からの赦免の知らせを待ち続けたが、14年たってもそれはもたらされなかった。 

その間に、徳川と豊臣の緊張は高まり、方広寺(ほうこうじ)鐘銘事件をきっかけに一触即発の状況になった。豊臣方は有力な牢人衆の召し抱えを図り、盛親にも大坂入城を勧めた。盛親は14年も音沙汰がなかった家康の仕打ちに心底怒りをこらえきれず、それならば、自力で旧領を回復すべく、豊臣家から土佐一国を与えるという誘いに応じたのである。 

お家再興の決意を固めた盛親は近隣の知友を招いて一夜の宴席をもうけた。これは徳川方の目を欺く偽装だった。盛親は日頃から京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ)から監視されていたが、勝重を油断させるため、家康・秀忠へのとりなしを依頼しており、勝重から家康父子にとりなすという色よい返事があったとして祝宴を開いたのである。(続く)

 

文/桐野作人(きりの さくじん)

1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、歴史研究者。歴史関係出版社の編集長を経て独立。著書に『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA)、『謎解き関ヶ原合戦』(アスキー新書)、『誰が信長を殺したのか』(PHP新書)など多数。