T-34/76の増加試作車ともいえるA-34。本車の各部に最終的な改修を加えて1940年型T-34/76が登場することになる。

ドイツ軍の快進撃を食い止めたT-34/76

 T-34の設計に際して、コーシュキンはBTの弱点のいくつかを解消した。

 防御力向上のため避弾傾始の概念をさらに大幅に採り込んで、各部に大きな傾斜角が付けられた車体や砲塔を採用。ノモンハン事件で日本軍の火炎瓶攻撃を受けると炎上しやすかったガソリン・エンジンを、発火しにくいディーゼル・エンジンへと変更。生産に手間とコストがかかり、しかも整備が面倒で故障も決して少なくない装輪走行機能を省略し、分厚い積雪と雪解け時の泥濘での行動を容易にする、接地圧の少ない幅広の履帯を採用。76.2mmという、当時としては大口径砲を搭載。といった点である。その結果、T-34は戦車に求められる「攻・防・走」の3点すべてがきわめて秀でた戦車となった。

 このような次第で、ドイツ軍の侵攻を受けて初陣を迎えた初期のT-34は、76.2mm戦車砲を搭載していた。同砲は当時、師団レベルで配備されていたため「師団砲」の通称で呼ばれていた野砲がベースとなっており、当時のドイツ戦車をすべて撃破可能だった。

 その一方、T-34は「スペックには表れない弱点」も抱えていた。例えば、当時のソ連の弱電関連技術では高性能の車載無線機の開発と量産が困難だったため、初期の本車の多くは、個車間の連携プレーに不可欠な無線機を搭載していなかった。また、戦時急造のせいでペリスコープや照準器の強化ガラスの品質にも難があった。

 しかし最大の弱点は、乗員の車内配置と動線に人間工学的な配慮がほとんどなされていなかったため、運用上の効率がかなり低かったことだ。車体乗員が操縦手と前方機銃手なのはドイツ戦車と同じだが、初期のT-34(のちにT-34/76と称される型式)では、砲塔が狭隘なため、砲搭乗員は車長兼砲手と装填手の2名だった。しかし実戦下では、車長は戦場全体をくまなく視察して自車の行動を決定しなければならず、先手必勝の戦車戦などの場合、車長が砲手を兼ねることは時に致命的な結果を招いた。

 

 また、砲塔が狭いことでわずかな数量の即応弾以外は戦闘室の床下に収納されており、砲塔の旋回につれて砲塔乗員も一緒に旋回できる砲塔バスケットが備えられていなかったため、装填手は戦闘中の床下からの砲弾取り出し作業と、砲塔の旋回につれて自分で動いて立ち位置を変えなければならないという、二重の苦労を強いられた。

 ソ連軍戦車兵の練度不足に輪をかける、カタログデータには表れないこのような弱点があったおかげで、熟練のドイツ戦車兵たちは、自らの乗車よりもスペックでは優れているT-34を撃破することができたのだった。

 しかしそれでも独ソ戦開戦の年の1941年後半、母なる大祖国の首都モスクワを目指して怒涛の進撃を続けるドイツ大戦車軍団の前に立ちはだかり、その身を挺して戦い抜いたT-34は、ソ連軍将兵から親愛を込めて「モスクワの守護神」とか「ロージナ(祖国の意)」といった愛称で呼ばれたのだった。