月読神社の月延石 神功皇后には、三韓征伐の際、石でお腹を冷やすことで出産を遅らせた鎮懐石伝説の他に、石を撫でることで、安産を導いた月延石の伝説もある。

■伝承の中にみられる応神・仁徳の同一人物説

 神功皇后の子である応神天皇は、出生のときから多くの謎につつまれている。神功皇后が三韓征伐へ向かうとき、皇后は産月をむかえていたという。そこで皇后は、石をとって腰にはさみ、三韓征伐を終えて帰ってから産まれるようにと祈って朝鮮半島へ渡ることになる。そして、平定を終えて筑紫にもどって、無事、応神を出産したという。このため応神は15カ月も胎内にあったことから胎中天皇ともよばれることになる。

 このように、応神は出生の状況がとても神秘的であり、加えて、九州で生まれたことが明記されているまれな天皇ということができる。

 応神と仁徳とは親子関係であり、皇位は応神から仁徳へと継承されたとするのが一般的である。ところが、応神と仁徳とは本来、同一の人物であり、一人の実在した天皇をのちになって二人の天皇に分けたとする興味深い説もみられる。この説の根拠は、両天皇の伝承に共通したものがみられるということである。

 たとえば、『日本書紀』にみえる応神の妃エヒメと『古事記』の仁徳の段に登場するクロヒメの伝承があげられる。エヒメの伝承は、応神が難波の大隅宮に行幸し、高楼から四方をながめていたところ、妃のエヒメが西方をみてため息をついたという。応神がどうしたのかとたずねると、吉備にいる両親のことが気にかかるという。それを聞いた応神は、エヒメが吉備へもどることを許し、淡路島の海人にエヒメを送らせることにした。そののち応神は、淡路島へ行幸したさい、さらに吉備にまで足をのばしたという。

 一方、クロヒメの伝承をみると、仁徳が吉備海部直の娘であるクロヒメの美貌を聞いて難波宮に召し出したが、嫉妬深い皇后のイワノヒメを恐れたクロヒメは、吉備へ逃げかえってしまう。難波津からクロヒメの船が出て行くのを高楼の上でみていた仁徳は、クロヒメを想う歌を詠じる。するとそれを聞いたイワノヒメは大変、立腹して難波津に人をやって船からクロヒメを降ろしてしまう。そして、クロヒメを徒歩で帰らせた。そののち、仁徳は皇后をいつわって淡路島へ渡り、そこから吉備へ行ってクロヒメとの再会をはたしたという。

(次回に続く)