月読神社の月延石 神功皇后には、三韓征伐の際、石でお腹を冷やすことで出産を遅らせた鎮懐石伝説の他に、石を撫でることで、安産を導いた月延石の伝説もある。

■同一人物説を裏付ける伝承が多い

『日本書紀』にみえる応神の妃エヒメと『古事記』の仁徳の段に登場するクロヒメの伝承を紹介したが、このエヒメとクロヒメの伝承を比較してみると、両者が吉備の出身であること、天皇が女性と別れたのちも忘れられず、のちになって淡路島を経由して吉備へおもむくといった物語の大筋が共通していることなどの類似点を見出すことができる。

 こうした類似伝承は、「枯野」と名づけられた船の伝承にもみることができる。まず、『日本書紀』の応神天皇の条には、伊豆国に命じて長さ10丈の大船を造らせたことが記されている。この船はとても高速であり、「枯野」と名づけられた。のち、「枯野」は老朽化して廃船となったが、応神は「枯野」の名を後世まで伝えたいと思い、船材で塩を焼かせてその塩を諸国に与え、船を造ることを命じた。その結果、500艘の船が献上され、武庫水門に集められた。しかし、おりしも停泊していた新羅船から出火して多くの船が燃えてしまった。また、「枯野」の残りを用いて琴を造らせたところ、その音色は清らかではるか彼方まで聞こえたという。

 この伝承に対して、『古事記』の仁徳天皇の段には、やはり、「枯野」の伝承がみられる。免寸河の西に一本の高木があり、この大木を切って船を造ったところ、船足がとても速いので「枯野」と名づけたという。この船で淡路島の清水を運び仁徳の飲料水として献上した。のち、「枯野」が破損したので、船材で塩を焼いた。さらに、残りで琴を作ったところ、大変よい音色が7つの村に響いたという。

 

 これら二つの伝承も大筋では一致しており、本来、同一の伝承の可能性が高い。この他にも酒造りのうまい渡来人の伝承や『古事記』の応神の段にみえる吉野の国主の歌なども応神と仁徳とを同一人物とすると、合理的に解釈できる面が多々みられる。

 同一人物説にはむろん批判もあるが、魅力的な説といえよう。

 神宮皇后の息子にあたる応神、孫にあたる仁徳。 応神天皇は河内王朝の初代大王であり、仁徳天皇はその上に重ねられた天皇にすぎないという説もある。

 神宮皇后にまつわる人物に興味は尽きない。

(次回に続く)