江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

■花魁道中とはパレードである

 吉原と聞いて、花魁道中を思い浮かべる人は多いであろう。

 しかし、誤解も多い。誤解を生む理由に、「道中」という言葉があろう。

 客に呼ばれ、花魁が新造や禿を従えて引手茶屋に向かうことも道中というからだ。しかし、これは花魁道中ではない。ただの道中である。

 正確に定義すると、「花魁道中」はパレードである。

写真を拡大 図1『青砥稿花紅彩画』(河竹新七著、文久2年)/国立国会図書館蔵

 吉原は遊廓であると同時に、江戸の観光地のひとつでもあった。多くの男女が見物に訪れたが、そうした見物人が一番見たがったのが、図1のような花魁道中だった。

 花魁道中は吉原観光の目玉だった。最大の観光資源と言ってもよい。図1は、箱提灯をさげた若い者と禿が先導している。若い者が長柄傘をさしかけているのが花魁。最後の、年配の女は遣手である。

 このようないでたちで、大通りである仲の町を練り歩いた。これが花魁道中である。

写真を拡大 図2『金神長五郎忠孝話』(式亭三馬著、文化6年)/国立国会図書館蔵

 図2は、引手茶屋の二階座敷から、仲の町を進む花魁道中を見物しているところである。やはり、花魁には長柄傘がさしかけられていた。

 では、当時の人がどのように花魁道中をながめ、感激していたかの例をあげよう。

 幕末期の佐賀藩士、牟田文之助はおよそ二年間にわたり、諸国武者修行をおこなった。その旅の克明な日記が『諸国廻歴日録』である。

 
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