錦絵・『赤松満祐梅白旗』で市川團十郎演じる赤松満祐 国立国会図書館蔵

■赤松邸での祝宴 その陰に満祐の陰謀が!

 年号が嘉吉と改まった4月、結城合戦での戦勝が報ぜられ、諸家で招宴が催された。結城合戦とは、永享12年に結城氏朝が鎌倉公方・足利持氏の遺子(春王・安王)を擁立して幕府に挑んだ戦いである。ただちに義教は関東管領上杉氏に討伐を命じると、1年余の籠城戦の末に城は落ち、氏朝は自殺、春王・安王は殺害された。同年5月の春王・安王の首級が京都に届き、これを祝賀する宴が義教邸などで行われた。

 満祐は嘉吉元年(1441)6月24日、西洞院の自邸において、義教を招き招宴を催した。先述のとおり、応永34年に満祐が自邸を焼いて播磨に下国したので、永享9年に新築をしていた。一説によると、新邸の庭の池には鴨の子がたくさん産まれ、その泳ぐ様子がおもしろいので、将軍を招いたという。義教は勝利に酔いしれていたであろうから、このあとに何が起こるのか、まったく予想だにしなかったことだろう。  この日は土用の入りであったが、朝からの雨で、肌寒さを感じる日であった。義教が赤松邸に入ったのは、午後4時頃であったという。義教には、管領・細川持之、侍所所司・山名持豊など名立たる武将が供奉していた。迎える赤松家では、満祐が狂乱状態にあったため不在であり、代わりに19歳の嫡男・教康が代行した。その介添えを務めたのが、叔父の則繁である。

 上座に義教が着席し、その横には同じく招かれた正親町三条実雅が着座した。そして、華やかな衣装を身にまとった近習衆や諸大名が次々と着座した。床の間には、赤松家から将軍への引き出物として準備された、金覆輪の太刀が飾られた。やがて酒宴がはじまり、盃になみなみと酒が注がれ、諸大名らの間を回っていった。この招宴では、酒宴とともに赤松氏がひいきにした観世流の能楽師により、猿楽が演じられた。

(つづく)