■嘉吉の乱・対応の遅さが室町将軍家失墜に  

 義教が殺害されたにもかかわらず、幕府の対応は極めて遅かった。守護らは赤松追討を掲げることなく、家の門を固く閉ざしていた。この間、満祐は自邸をはじめ一族・家臣の邸宅を焼き払い、一族を引き連れ本国の播磨へと戻った。

赤松満祐討伐に、後の応仁の乱で西軍大将となる但馬守護・山名持豊が搦手として活躍。『本朝百将伝 山名宗全』 国立国会図書館蔵

 義教の葬儀が行われたのは、乱後10日余りを経た7月6日であった。前後して、諸大名は評定会議を開き、義教の子息・千也(せんや)(ちゃ)(まる)(後の義勝)を後継者に定めた。そして、政務の代行者を管領細川持之とし、満祐討伐を守護らに命じた。大手の大将は阿波守護細川(もち)(つね)、搦め手の大将は但馬守護山名(もち)(とよ)にそれぞれ命じている。それらの軍勢には、細川氏一門のほか各地の守護、そして乱に与しなかった赤松貞村・満政、有馬持家ら赤松氏庶流も加わった。一方、赤松氏側も一族および播磨国内の国人・被官人らが続々と集結し、赤松教康・義雅・則尚は播磨、但馬の防御線を守った。

 このとき満祐は、備中国井原荘の善福寺に、足利(なお)(ふゆ)の孫(ふゆ)(うじ)が禅僧として住寺していることを知った。冬氏は「善福寺殿大御所」と呼ばれており、地元では足利氏の一門として尊重されていた。満祐は(のり)(しげ)に命じて、冬氏を自陣へと迎える。冬氏は書写東坂本の定願寺に入り、井原御所と称し、名を「(よし)(たか)」と改めた。義尊を擁立した満祐は、義尊の名を騙り、御教書を各地の守護に発給した。ほぼ同じ頃、南朝の子孫である小倉宮(おぐらのみや)が赤松氏に盗み奉られたとある。満祐は、幕府と同様に疑似的な朝廷を作ったことになる。

(つづく)