■外交と宗教をめぐる中臣氏との対立

藤原不比等肖像『集古十種. 古画肖像之部 上』松平定信編より 国立国会図書館蔵

 守旧派の改革派・聖徳太子の暗闘。この痕跡は、じつは『日本書紀』のいたるところに隠されている。 もっともわかりやすい例は、外交政策のなかにある。

 古代日本の朝廷は、理由は定かではないが、伝統的に極端な親百済政策を貫いてきた。この親密ぶりはむしろ異常ともいうべきもので、百済滅亡後に成立した『日本書紀』の記述でさえ、この姿勢をくずしていない。

 だが、このような朝廷外交史のなかで、一度だけこの原則を破った時期がある。

 それは6世紀後半~7世紀前半の蘇我氏全盛期で、百済一国に固執せず、東アジアの国々と接触しようという、いわば全方位型外交を展開したのである。

 つまり、この外交政策の大転換は、蘇我氏の主導のもとに行われたと推測できる。 ちなみに推古天皇16年(608)、ヤマト朝廷は隋とのあいだに初の国交を樹立するが、この快挙の立役者である聖徳太子が、蘇我氏の外交方針に同調していたことは、まずまちがいない。なぜなら、聖徳太子のこの業績は、蘇我氏の推し進めた外交政策の集大成にほかならないからである。

 この聖徳太子と蘇我氏が進めた外交政策を元に戻すようになったのは、中大兄皇子が母・斉明天皇を即位させ、実権を握った直後である。 斉明6年(660)に唐・新羅連合軍の攻撃により一度は滅亡した百済の再興をもくろんで、中大兄皇子は大陸に無謀な遠征を敢行している(663年の白村江の戦い)。 このことは、中大兄皇子やそのとりまきと聖徳太子のあいだに、外交政策上のなんらかの確執があったことを証明している。

 このような流転する七世紀の外交政策を思うとき、『日本書紀』の聖徳太子に対する態度は不可解なものに思えてくる。 『日本書紀』を編纂した中心人物は、中臣(藤原)鎌足の子・藤原不比等とされている。 中大兄皇子とともに親百済外交の復権に奔走した鎌足の子・不比等が、百済を滅亡に追いこんだ蘇我氏の外交政策を支持した聖徳太子を、なぜ『日本書紀』のなかであえて聖者」として描く必要があったのか?

 外交問題ばかりではない。中臣氏と聖徳太子の対立は、宗教問題についても同様のことがいえる。そもそも中臣氏とは、本来神と人の「中」をとりもつ一族であったといわれている。 

 ここでいう「神」とは、もちろん日本古来からの神道の「神」をさしている。

 聖徳太子は律令制度による土地改革に命を懸けていた。そして、そのためには仏教導入が絶対に必要だった。結論だけ述べると、仏教という大陸の新宗教を導入することによって、「仏法のもとでは誰もが公平であるという理論武装を固めようとしたの である。

 したがって、聖徳太子の推し進めた仏教導入は、神道を司る中臣氏の活躍の場を根底からくつがえしかねない暴挙に等しかった。

 事実、中臣氏は物部守屋とともに仏教を積極的に排斥し、これが蘇我馬子・聖徳太子とのあいだの武力衝突にまで発展し、結局、仏教推進派が勝利をおさめたことはよく知られるところである。

 したがって、中臣氏の末裔である藤原不比等が権力者だった時代に編纂された正史 『日本書紀』のなかで、仏教推進派のシンボル・聖徳太子が「聖者」として扱われていること自体不自然なことなのだ。

(次回に続く)

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より