現代人とは異なり、中世人にとって旅は娯楽ではなかった。
旅には苦難や危険がつきものであり、いわば非日常的な空間に心身を投じる修行であった。それでもどうしようもない日々の憂いが人を旅に駆り立て、やむにやまれぬ動機が、身体を日常の外に運ばせたのだ。
妻子を捨て、善悪の境界も捨てて、旅に生きた者もいる。時宗の開祖・一遍(いっぺん)である。一遍はなぜすべてを捨てて旅に出たのか。彼はその先に何を求めたのか。「踊り念仏」の謎に迫る。
 
 
 

人生を旅に生きた僧・一遍

 一遍(1239~1289)は、伊予国道後(愛媛県松山市)の豪族の家に生まれた。母の死をきっかけに10歳で出家し、やがて浄土宗の開祖・法然の孫弟子にあたる西山浄土宗・聖達(しょうたつ)の弟子となる。だが、25歳のときに父の死を契機に僧籍を捨て、妻子をもうけた。
 ところが、32歳でふたたび家を捨てたという。何があったのか。
 一族の所領争いで遺恨が生じ、刃傷沙汰になったからとも、ふたりの妾をめぐって「執心愛念嫉妬の畏るべきことを思い知り」発心したとも伝わる。要するに、わが身をとりまく修羅の運命から逃れるための再出家であった。
 再出家した一遍ではあったが、もはや寺は自分自身の問題を解決しうる場にはならなかった。
 彼はまず信濃(長野県)の善光寺に向かい、「二河白道図(にかひゃくどうず)」という仏画を拝受する。

 その仏画は、西方浄土にいたる道を火と水からなるふたつの河に挟まれた一筋の白い道に例えたもので、火は凡夫の瞋恚(しんい=怒りのこころ)を、水は凡夫の貪愛(とんあい=貪りのこころ)を表していた。つまりふたつの河は、末法の世の実相であり、一遍自身に宿った業でもあった。
 続いて故郷・伊予の嶮しい行場に籠もり、一身に祈念をこらした。岩窟に籠もり生死の境に瀕しながら、一遍はついに思い定めた。
「真ん中の白い道こそ南無阿弥陀仏だ。水と火の河は我らの心だ。ふたつの河に犯されないのは名号(南無阿弥陀仏)だ」
 こうして得た悟りを胸に、一遍は旅に出た。南無阿弥陀仏の名号をすすめることで末法の人びとを救い、かつみずからを救う「白い道」を歩み出したのである。
 一遍のような存在を「聖」という。
 聖とは、寺院に定住せず草庵に暮らしたり、遍歴を重ねながら修行する半僧半俗の者たちである。この時代、念仏をすすめて帰依を集める念仏聖が各地の寺社を拠点に活躍しており、一遍もそのひとりとなったのだ。
 浪速(大阪府)の四天王寺から、弘法大師空海ゆかりの高野山へ。これら念仏聖の拠点となっていた霊場を巡りながら、六字名号を記した念仏札を配る旅は、紀伊(和歌山県)の熊野本宮へとつづいた。そしてここで、決定的な回心体験が訪れる。

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