■現世をうとみ、自ら命を絶った可能性

聖徳太子と縁が深い大阪・四天王寺

 本来は神道の敵であった聖徳太子。だが『日本書紀』は、結局聖徳太子を聖者として書かざるをえなかったそこに、朝廷のジレンマがあったことはまちがいない。

 そして、このことは当然次のような疑問を引き出してくれることになる。なぜ朝廷 は聖徳太子を悪し様に書けなかったのか? ということは、その裏には、朝廷にとってどうしてもそうせざるをえない重大な秘密が封印されていたのではないか.?

 ここに今まで問われることのなかった古代史の真実が隠されているのであり、この 謎の中に聖徳太子の正体が隠されているのである。 

 そもそも太子の死には、謎が多すぎる。このことが憶測を呼び、さまざまな死因がとりざたされるようになったのだ。

 推古13年(605)10月、飛鳥から遠く離れた斑鳩の地に宮を移した太子は、 推古30年(622)2月、太子の妻・膳(かしわ)夫人(でのきさき)と前後して奇妙な死を迎える。

 一般的には、この太子の死を他殺とみる者は少ない。病死、しかもあまりに急な死のために、伝染病のたぐいではなかったかとする説が主流を占めている
たとえば平安時代中期(10世紀ごろ)に成立したとされる『上宮聖徳法王帝説』のなかに聖徳太子が、急逝した夫人を偲んだ歌が載る。「生きることができなかったのなら、せめて井戸の水を 飲ませてやればよかった」という内容である。
『上宮聖徳法王帝説』はこの歌の説明と して、膳夫人が臨終の際に水を欲しがったところ、太子が許さず、そのまま夫 人が亡くなってしまったため、太子が悔やんで詠んだという。

 夫人が臨終に際し水を欲したとする この証言は、夫人が熱病に冒されていた可能性を示唆しているといわれている。このことから、夫人の伝染病に聖徳太子も感染して、それが聖徳太子を死に導いたと推察されている。

 またその一方で、太子自殺説も捨てがたい。

 理想主義者・聖徳太子は朝廷内で孤立、失意のなか斑鳩宮に隠棲し、その延長線上に自殺があったのではないかとする考えである。

 たとえば、現在法隆寺の東隣、中宮(ちゅうぐう)寺にある天寿(てんじゅ)国帳(こくしゅうちょう)には、太子の語ったとされる有名な言葉が残されている。

「世間(よのなかは)虚仮(いつわりかりにして)、唯仏(ただほとけのみ)是(これ)真(まこと)」

 つまり、俗世間は仮の姿であり、むなしいものだが、ただ仏のみが真実であるこのような太子の言葉から、現世をうとみ、自ら命を絶った可能性を見出すことができる。

(次回に続く)

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より