今のご時世、もっともらしい正論や、無難な言葉など何の足しにもならない。こんな時こそ、毒があっても自分の前に立ちふさがる黒雲を一掃させてくれる存在を見逃す手はない。『乱世を生き抜いた知恵』から岸信介の“劇薬”的言葉を紹介しよう。

■「相手には、自分にない良いところが一つはある。そことつき合えばいいではないか」

 

 岸は角栄のような名言語録は遺していないが、聞き上手であったことはあまり知られていない。角栄は誰とでも本音で向き合ったから、相手も胸襟を開いた。

 

 田中の人気と大衆性の原点はここにあるのだが、意外なことに、プライドの塊のように見える岸信介は、若いときから聞き上手で定評があった。学生時代に友人が多かったのも、多分にそのせいらしい。

 満州国政府の高級官僚時代も、多忙な日々にもかかわらず、訪ねてくる人間には、どんなに忙しい時でも時間を割いて会った。

 相手は関東軍の高級将校、満鉄や企業の関係者ばかりとはかぎらなかった。右翼、大陸浪人風の胡散臭い男たちから、なかにはヤクザまでいたが、それでも相手の話には耳を傾けた。

 さすがに見かねた部下が「岸さんともあろうものが、なにもあんな連中の話に付き合わなくても」と意見しても、「なに、どんな人間にも、こちらにはないいいところが一つはあるもんだ。そこと付き合えばいいじゃないか」という言葉が返ってきた。

 総理時代も「オヤジは忙しくてもだれとでも会うし、どうでもよさそうな会合に出かける。なかにはなんでこんな人間と…と苦言を呈しても、言うことを聞かない。人を頭から白だ黒だと分けるもんじゃない、とよく言われた」

 総理秘書をしていた息子の信和は、そう語っている。

 結果的に情報量は増えることになるが、「なんでもよく知っている岸」「人脈の広い岸」の一因は、この聞き上手にもあったとみられる。

「愚者のおしゃべり、賢者の聞き上手」の戒めを心掛けていたらしいが、そういえば、岸の耳は人一倍大きかった。

<『乱世を生き抜いた知恵  岸信介、甘粕正彦、田中角栄』より構成>