■揚屋から妓楼へ

写真を拡大 図3『吉原恋の道引』(延宝6年)

 しかし、紀文と奈良茂が豪遊した時代の吉原は揚屋制度だった。図3は、揚屋の遊興の光景である。

 ふたりの豪遊も、図3を見ると、急に色あせてくるのではなかろうか。

 現代人がイメージする吉原は、江戸時代後期に描かれた浮世絵や錦絵で醸成されたものである。揚屋制度があった時代の吉原は、後世の吉原を見慣れた目から見るとなんとも素朴だった。

 宝暦年間(1751~64)に揚屋制度は廃止され、太夫の称号もなくなった。
『新吉原細見記考』(雀庵著、天保14年)に、次のような記述がある。

 宝暦十年(1760)に最後の揚屋「尾張屋」が廃業した。この尾張屋は万治元年(1658)の開業で、およそ百十年続いた、揚屋の名家だった。

 かくして、宝暦年間以降、客は妓楼にあがり、遊女と床入りする制度になった。その結果、妓楼の造りも豪壮になっていった。