江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

■吉原、京都の島原、大坂の新町

 吉原は幕府の許可を得た、いわゆる公許の遊廓である。だが、江戸の吉原だけでなく、京都の島原、大坂の新町も公許の遊廓だった。

 島原、新町、吉原を三大遊廓ということもある。

写真を拡大 図1『国字茶話文庫』(丹頂庵鶴丸著、天保9年)

 図1に「京みすじ町のよしの太夫」とあるが、三筋町は島原遊廓の異称。

 つまり、長柄の傘をさしかけられているのは、島原の吉野太夫である。

 見物の男たちが、

「さてさて、美しいもの」
「天人の落とし胤か、小野小町の生まれ変わりか」

 と、讃嘆している。

 京都の遊廓は天正十七年(1589)、豊臣秀吉の晩年、二条柳町にひらかれ、俗に新屋敷と呼ばれたという。諸説あるが、それまで各地に散在していた女郎屋を集め、遊廓として整備したのであろう。

 その後、慶長七年(1602)、市街の拡張のため六条の地に移転した。

 さらに、寛永十八年(1641)、三代将軍家光のとき、朱雀野に移された。正式な名称は西新屋敷柳町だったが、いつしか、島原と呼ばれるようになった。

 遊廓はまわりを土塀と堀で囲まれていたため、寛永十五年(1638)に終結した島原の乱に従軍した男たちが、

「島原の城に似ている」

 と評したのが由来だという。

 
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