■新町のにぎわい

写真を拡大 図3『澪標』(寛政10年)

 図3には、新町のにぎわいが描かれている。

 天正十一年(1583)に大坂城の築城が始まると、多くの若い労働力が大坂に流入してきた。こうした男たちを目当てに女郎屋が林立した。

 各地の女郎屋をできるだけ一カ所に集めるため、豊臣秀吉は天正十三年(1585)、大坂に遊廓を作るのを許可した。

 その後、秀吉の死後も遊里は増え続けたが、元和三年(1617)、あたらしい町割りにともない、女郎屋はすべて新町に移された。二代将軍秀忠のときである。

 こうして、新町は徳川幕府の公許の遊廓となった。

『けいせい色三味線』によると、新町の太夫は合わせて三十九人である。島原よりも多い。

 元禄のころまで、経済も文化も上方の方が江戸よりも優位に立っていた。

 遊里についても同様だった。
三大遊廓と称されるが、元禄のころまで、新町・島原の方が吉原よりはるかに繁栄していた。