■光背が仏像の頭に釘を打たれミイラのように隠された訳

崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開のため四天王像を彫り、それを安置するため建立された四天王寺

 世にも妖艶な仏像に秘められた謎。 では、梅原猛氏の直感は、正しいのだろうか。 そして、光背が仏像の頭に釘を打たれている、ということから、梅原氏はこの犯罪行為が、太子の怨念を恐れた人の手によってなされたと推理している。

 梅原猛氏が「崇る聖徳太子」を推理した理由は、救世観音だけではない。ヒントは、上宮王家滅亡事件にあるという。

 聖徳太子の死後、息子の山背大兄王の一族は、蘇我入鹿の差し向けた軍団に追われ、生駒山に逃れた。挙兵の進言を受けた山背大兄王だったが、自分ひとりのために多くの人に迷惑はかけられないと、斑鳩の地に戻り、一族とともに滅亡して果てた。これが上宮王家滅亡事件である。そしてこの後、中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足は、国家の危機を感じとり、蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家は滅亡したのである。

 乙巳の変(蘇我本宗家滅亡が乙巳の変。この後に進められる改革事業を大化改新という)の現場で、中大兄皇子は蘇我の悪を証明するために、蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼしたことを取りあげ、糾弾している。だが梅原猛氏は、上宮王家滅亡事件には黒幕がいたという。それが中臣鎌足で、蘇我の内紛を利用して、漁父の利を得たという。 つまり、上宮王家滅亡によって蘇我入鹿が大悪人になってしまったが、中臣鎌足が陰から操っていたというのである。

 このあたりの事情は、後にふたたび詳述するが、なぜこのような推理が生まれたか、その梅原氏の推理を、ここに掲げておこう。すなわち、八世紀にいたり、中臣鎌足の末裔の藤原氏が、聖徳太子を丁重に祀りはじめていたからだ。しかも、藤原一族に、何かしらのアクシデントが起きたとき、聖徳太子が祀られたという。その理由を突きつめれば、藤原氏の祖の中臣鎌足が、山背大兄王一族を滅亡させた主犯だったから、とするのである。

 梅原猛氏の推理は、斬新だった。だが弱点がある。それは、藤原氏が山背大兄王の一族を祀らず、聖徳太子を重視したことにある。もし梅原説のいうように、山背大兄王一族の滅亡が中臣鎌足の仕業だとして、なぜ藤原氏は、山背大兄王の父親の聖徳太子を祀る必要があったというのだろう。

 梅原氏の述べるように、後の世の人々が聖徳太子を恐れていたことは、確かなことのように思われる。それは、「ミイラのようにされて隠された救世観音」の姿からはっきのとする。

 平安時代後期には、すでにこの仏像は、深い眠りに就いていた。そして明治初年、廃仏毀釈の狂気は法隆寺にもおよび、秘仏もひきずり出されそうになったのだった。ところが、開帳を迫る役人どもの目の前に、たちまち黒雲がたなびき、雷鳴がとどろいたという。当然作業は中断された。このような前例があったため、フェノロサと岡倉天心が訪れたとき、寺僧たちが「秘仏をみれば地震が起き、天罰によって寺が崩壊する」と恐れをなしたのだろう。けれどもその背景には、聖徳太子を恐れつづけてきた歴史が横たわっているのである。

 ならばなぜ、人々は聖者=聖徳太子を恐れる必要があったのだろう。そしてなぜ、 縁もゆかりもない藤原氏が、聖徳太子を丁重に祀ってきたのだろう。

 それは、聖徳太子を殺したという罪の意識を、人々が共有していたからではあるまいか。そしてだからこそ、聖徳太子の正体は闇に葬られたのではなかったか。

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より