■大名行列の起源である「車懸り」とは?

 大名行列の編成様式を調べるうちにたどり着いたのが、上杉謙信の「車懸り」でした。「車懸り」とは、上杉謙信が武田信玄と戦った「川中島合戦」で使った用兵の名前です。この戦いで謙信は、上級指揮官を多数討ち取り、圧倒的な戦果を挙げます。

「車懸り」は行軍隊形を保ったまま敵軍に接近し、行列の状態が白兵戦へ移行するという戦法で、既存の軍隊の常識を打ち破る作戦でした。敵の上級指揮官と引き替えに、上杉軍は少なくない一般兵士を失います。「肉を切らせて骨を断つ」というリスクが高い戦術でした。謙信独自の「軍列」だからこそ可能だったのです。

 そもそも「車懸り」は、偶然と偶然が積み重なってできたものでした。北信濃の戦国大名・村上義清が、武田氏の家臣・真田幸隆(昌幸の父)にひどい目に合わされたことに始まります。手勢のほとんどがやられ、残っているのは戦闘の素人と軍馬や武器などの遺品だけ。それでもなんとか反撃しようとしますが、戦力のない現状で真田を討とうとなったら、特殊な戦略しかないわけです。

 そこで村上義清は「兵科別編成」を行います。「兵科別編成」とは旗・弓・鉄砲・鑓(長柄)・騎馬が定数によって揃えられた用兵のことです。なお、これについては東京大学史料編纂所の本郷和人さんから色々疑問を投げかけられたことがありますが、本書の第三章と第八章ですべてお答えしています。

 さて、この義清の「兵科別編成」を大々的に取り入れたのが上杉謙信でした。義清は幸隆にひと泡吹かせたものの、結局は負けて、逃れる先が謙信しかない状態でした。しかし謙信が取り入れたことで、本格的に制度として、軍隊としての行列が生まれたのです。

 武田信玄をどうしても討ちたいという上杉謙信が、縦列の体系でとにかく攻撃型の陣形を作った……それが大名行列の起源だと考えます。そして「車懸り」が生まれるには村上義清も真田幸隆も武田信玄も必要だった。彼らがひとりでも欠けていたら生まれませんでした。本書では「陣形の歴史」とともに、こうした「人間ドラマ」を読み取っていただけたらと思います。

〈第2回に続く〉