「戦う」という言葉とは相反する「大名行列」と、斬新なタイトルが付けられた新書『戦う大名行列』。大名行列の起源という上杉謙信の「車懸り」から東国に広まった陣形を西国で初めて取り入れたのは明智光秀だった? 2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公ででも話題の武将の真実に、著者である歴史家・乃至政彦氏が迫ります。第1回第2回につづく連続インタビュー第3回。
武田信玄像

■「超攻撃型」の上杉謙信と「防御型」の武田信玄

 川中島合戦で上杉謙信の「車懸り」が成功すると、みんな謙信の真似をしようと東国中に流行します。しかし、謙信のやっていることが特殊なため、なかなか真似できない。

 武田信玄の場合、謙信が「超攻撃型」とするならば、信玄は「防御型」。謙信が戦争の動機として「正戦」(「順法の弓矢」)を求めていましたが、信玄は「国盗り」(「後途の勝ち」)のために政治の延長として戦争を行っていました。信玄は、できれば手持ちの軍隊を消耗することなく、勢力を拡大したいと考えていたから、野戦に対しては消極的になり、自ずから防御型の陣形を考えることになる。そうして導入されたのが武田の「八陣」であり、それがぶつかり合った合戦こそ、永禄4年(1562)の「川中島合戦」なのです。

「川中島の戦い」

 のちに、北条氏政も信玄型の編成を用いるようになります。さらにその後、東国形式の編成と用兵を織田信長の家臣・明智光秀が見つけます。東国の陣形を西国に持ち込んだのが、あの明智光秀だったのです。

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