江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

■現在の横浜スタジアムにあった港崎遊廓

 港崎(みよざき)は、幕末になってできた遊廓である。

 安政六年(1859)の横浜開港にともない、異人がどっと来航するのが予想された。また、横浜には居留地もでき、異人の定住も始まる。

 こうした事態に直面して、幕府はあわてて遊廓の設置を決めた。

 湿地を埋め立てて一万五千坪の敷地とし(場所は、現在の横浜スタジアムのある横浜公園)、遊廓の仕組みは吉原、異人の扱いは丸山にならうとした。

写真を拡大 図1『大門出口乃柳・大門前町港崎橋之景』(五雲亭貞秀著、万延元年)

 安政六年の末から遊廓としての本格的な営業を開始し、港崎と命名された。
 図1は、港崎遊廓の大門が描かれている。
 周囲が掘割で囲まれていることなど、吉原にならったのがわかる。

 しかし、すでに開国しているため、異人は横浜の町も、港崎も自由に闊歩できた。もやは、丸山のデリヘル方式は通用しない。

 図2は、港崎で最大の妓楼・岩亀楼(がんきろう)で、異人がどんちゃん騒ぎをしている光景である。

 このあと、異人は遊女と床入りした。ただし、ベッドはない。だが、異人にとっては畳の上に布団を敷くのも異国情緒だったであろう。

 
写真を拡大 図2『横浜港崎廊岩亀楼異人遊興之図』(一川芳員著、文久元年)

 当時の通貨の関係から、異人には日本の物価も人件費も安く感じられたであろう。当然、気前よく散在する。

 当初こそ、港崎の遊女は異人と肌を合わせるのを嫌悪したが、やがて歓迎するようになっていった。異人は上客だったのである。

 ところで、岩亀楼の遊女喜遊は楼主からアメリカ人の客を取るよう迫られても、異人に肌を許すのを拒み続け、ついには、

露をだにいとう大和の女郎花ふるあめりかに袖は濡らさじ

 という辞世の歌を残し、懐剣で喉を突いて自害したという。

 遊女でさえ大和なでしこの操を守ったというこの哀話は、小説や芝居にもなって有名だが、まったくのフィクションであり、史実ではない。

 そもそも、岩亀楼に喜遊という遊女はいなかった。

 港崎は開業から七年後の慶応二年(1866)、横浜の大火(通称、豚屋火事)で全焼した。

 その後、港崎が再建されることはなく、遊廓は他の場所に移った。

 港崎遊廓の繁栄はごく短期間だった。