江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

■吉原芸者あれこれ。

 江戸の芸者は、吉原芸者と町芸者に分けられた。

 吉原以外の遊里や盛り場などで営業する芸者を総称して、町芸者といった。もちろん、吉原芸者の方が町芸者より格が上だった。

 吉原芸者も大きくふたつに分けられた。

 大きな妓楼になると、芸者をかかえていた。これを、内芸者といった。

 いっぽう、揚屋町の裏長屋などに住み、見番に登録している見番芸者がいた。見番を通じて、妓楼の宴席などに呼ばれる。

 図1は、見番芸者が妓楼におもむくところであろう。黒い箱をかついでいるのは若い者で、なかには三味線がはいっていた。

 第9回『深夜、宴席の残飯をあさる遊女の切実さ』の図1に、宴席で三味線を弾く芸者が描かれていた。このように、芸者はあくまで脇役だった。

 戯作『仮名文章娘節用』(曲山人著、天保2年)に、吉原の芸者が――

写真を拡大 図1『情競傾城嵩』(坂東秀佳著、文政9年)

「わたくしはまた、座敷ばかりの、はかない芸者の身の上ゆえ、たとえどのような訳あっても、芸者は抱えの女郎衆には勝たれぬが廓のなわわし」

 と嘆く場面がある。

 遊里では、とくに吉原では、遊女の方が芸者よりも身分が上だった。芸者は遊女には勝てなかったのである。

 芸者は出しゃばってはならなかったし、客の男と寝るなどもってのほかである(しかし、裏茶屋などで忍び合うのはやまなかった)。