■「弓矢の瑕瑾」細川勝元は反撃を誓う

写真を拡大 応仁の乱『絵入名将百史伝』中村金水 著[他](中央出版社) 国立国会図書館蔵

 ここで問題となるのが、勝元の動きである。彼は「手出し無用」と義政から命を受けたばかりか、「政長と義絶あるべし」とまで言い渡されていた。これを受けて彼の伯父の持賢も勝元に意見したため、「合力あるべからず」と不戦を誓わされていた。「勝元君臣の道まがわざる(間違えない)人也」と言う(『応』)が、将軍とその継嗣、天皇と上皇まで押さえられ、朝敵・逆賊となることを恐れただけの話であろう。

 

 こうして、勝元の援軍を得られず孤立した上御霊社の政長の陣へ向け、義就と宗全の軍勢は殺到した。社の森の南は相国寺の藪と大堀があり、西は川が流れるという要害だったから、攻め口は北と東の2方面しかない。義就・宗全軍は鳥居脇に放火したが、折からの逆風で雪と煙が彼らの目に入ってしまい、混乱。これを見た政長軍は一斉に矢を射かけ、たちまち攻撃側に600以上の負傷者が出た。河内衆の隅屋二郎の子で13、4歳の者が華麗な具足を身に付けて「志ある者は出て来い、勝負しよう」と挑むと、政長方にはこれにも藪の中から矢で答え、この若武者は胸板を射抜かれて即死してしまった。従来の礼法・慣習を無視し、勇気も関係なく安全な場所から遠戦兵器で勝敗を決するという、戦国時代への合戦の流れを、ここに見ることができるのではないだろうか。夜に入り戦闘は中断され、翌19日未明、政長は南の相国寺の藪をくぐって脱出、行方不明となり、京には平穏が戻ったように見えたのであった。

 一方、この変に為す術無く傍観に終始した勝元は世間から「言う甲斐なきは勝元の働きかな」と非難され、「細川きれ(「細川勝元」と「細い皮切れ」を掛ける)を頼む儚さ」と揶揄され、近しい人からは「弓矢の瑕瑾」とその名誉が汚れたのを惜しまれた。 失脚した勝元は、「心ならず御敵の名を取るべきこと、口惜しき次第なり」と名誉回復の決戦に臨むべく、一心に戦備を進めていくことになる。

(次回に続く)