■容疑者は誰か? 推古天皇の場合の動機

写真を拡大 『聖徳太子伝記』覚什[他] 写本  国立国会図書館蔵

 こうしてみてくると、聖徳太子という人間が、実際はいかに危険な立場に追いこまれていたかがおわかりいただけるだろう。6世紀末から7世紀前半にかけての朝廷内の権力闘争は、太子を中心に動いていたといっても過言ではない。

 それでは、これまであげた容疑者のなかに、もし犯人がいるとすれば、いったい誰が太子を殺したのだろうか?

 この問題を解決するために、まず殺人事件捜査の定石ともいえる「誰がいちばん得をしたのか」という側面から探っていくことにする。

『日本書紀』の記述にしたがえば、太子の死後、推古30年(6)朝廷を支配したのは蘇我氏であった。もちろん、蘇我氏は推古女帝の登場した崇峻5年(592) の時点でも、すでに朝廷における発言力は群を抜いていた。だが太子の死後、蘇我氏の横暴はますますエスカレートし、あまつさえ朝廷をないがしろにするまでにいたっていたという。 たとえば、天皇の位につくためには蘇我氏の後ろ楯が必要不可欠であった。