日本一城郭が密集する地域として思いつくのは、118もの諸大名の陣が築かれた肥前名護屋城の周辺。陣屋といっても、羽柴秀保陣や前田利家陣は通常サイズの山城に匹敵し、1週間あっても、見尽くすことができない。

羽柴秀保陣の石垣
諸大名の陣屋の中では最大級の規模を誇り、近世大名の居城に匹敵。

 肥前名護屋城の場合、朝鮮出兵の前線拠点という特殊な状況により、多くの城郭が造営された。
 そのほかでは、伊賀の土豪たちが築いた城郭群がイメージされる。伊賀の忍者たちは、小規模ながらも技巧的な城を数多く築くことにより、他国からの侵入を防いだ。その総数は約600に及び、いわゆる伊賀忍者たちによる郷土防衛の意識の強さが感じ取れる。

村雨城空堀
村雨城は伊賀城郭群の代表例。城郭群の中では大規模。同じような規模と形状の寺前城が近接する。
 

 私が居住している旧武蔵国橘樹郡は、きわめて戦国城郭が少ない。それは、このエリアが戦国時代の中盤戦には北条氏の安定支配地域になったことによる。

 別の見方をすると、戦国大名間の激しい陣取り合戦が行われた結果、城が数多く造成されたのだといえるのだ。

 永禄11年(1568)、武田信玄は、甲相駿三国同盟を破棄し、今川領の駿河へ侵攻。同盟破棄を許さない北条氏は、駿河へ出兵。以来、武田氏と北条氏は、富士山の南東側の山麓を舞台にして、血みどろの陣取り合戦を繰り広げた。

 駿河東部一帯は、甲相駿三国同盟が結ばれていた時期は、今川氏が安定して支配していた地域だった。

 そのため、深沢城、葛山城、長久保城など、今川方が周辺地域を支配するために活用した城も存在したものの、城が密集する地域とはいえなかった。

 武田対北条の壮絶な陣取り合戦が繰り広げられると、南一色城、大畑城、千福城などが新規に築城され、この地域は、一気に城郭密集地域へと変貌した。

南一色城本丸の現状 この光景を目にしたとき、ただの畑ではなく、戦国時代に築かれた土塁が残されていることが 理解できるようになります。