■朝廷の仕掛けた完全犯罪のシナリオ

写真を拡大 上宮王家『日本歴史図会. 第1輯』古谷知新 編(国民図書刊)

 

 

 蘇我氏の専横はつづく。 

『日本書紀』皇極二年(六四)一〇月には、蘇我蝦夷が病気を理由に朝廷に出仕しなくなったばかりか、子の入鹿を勝手に大臣にしてしまった。 そして大臣となった入鹿は、その直後、朝廷を震憾させる暴挙に出た。舒明天皇の子で蘇我系の皇族・古人大兄皇子を即位させるために、もうひとりの有力皇族である山背大兄王(上宮王家)を急襲し、一族を滅亡に追いやったのである。これが世にいうところの「上宮王家滅亡事件」である。

 この事態にはさすがの父・蝦夷でさえ動揺し、「入鹿ははなはだ愚かなことをしてくれた」と嘆いたという。

 上宮王家の滅亡によって朝廷は騒然となった。そして、ついに蘇我氏に対抗しようとする勢力が出現し、飛鳥の朝廷はいつ内乱が起きてもおかしくはないほどの緊張感に包まれた。

 

 これに対して蘇我蝦夷・入鹿親子は甘樫丘を城塞化し、さらに蝦夷の邸宅を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」と称し、なおその権勢を誇示したのである。

 以上のように、聖徳太子の死から乙巳の変・大化改新にいたる直前のこの時期まで、 蘇我氏の勢力は絶頂期を迎えていた。これはとりもなおさず、聖徳太子の死によって実質上の大王家が蘇我氏に移ったことを象徴している。
したがって、聖徳太子を殺してもっとも得をしたのは蘇我氏であり、ということは聖徳太子を殺した犯人は蘇我氏である可能性がもっとも高いということになる。

「ところが、蘇我氏を聖徳太子殺しの犯人だと仮定すると、説明のつかぬことがひとつある。それは、なぜ『日本書紀』は蘇我氏の「聖者殺し」の大罪をあからさまに糾弾しなかったのか、ということだ。

 皇極四年(六四五)におきた乙巳の変(入鹿暗殺)の最大の大義名分は、上宮王家 滅亡事件に対する仇討ちであった。だから、もし蘇我氏が聖徳太子の子・山背大兄王 ばかりでなく、聖徳太子自身をも暗殺していたとすれば、『日本書紀』は当然これを明記する必要があったはずだ。しかし、『日本書紀』は朝廷の聖者・聖徳太子の実像を曖 味にすることによって、暗殺説を密かに退けている。 このような朝廷の態度を、いったいどうとらえるべきなのか?

(次回につづく)

〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より