■東軍の油断をついた西軍の猛攻撃が都を焼け野原に

細川勝元『本朝百将伝』大西与左衛門著より 国立国会図書館蔵

 足利義視は、義政が伊勢貞親を赦免し京に復帰させたため、幕府内部で孤立化していた。義視を廃嫡して義尚を将軍後継者に据えたい日野富子が、貞親と組んで義視包囲網を形成したのだ。彼女は宗全ともつながっており、「義尚擁立」は西軍の反攻の口実となる。

 東軍が有利な状況に油断して兵たちを国もとへ引き揚げさせた後の6月初め、宗全は山名・畠山の支配する8カ国から兵を呼び寄せ、大和の有力国衆にも協力を依頼。反撃態勢を整えた。

 こうした情勢のなか、6月7日に義政は西軍に投降を呼びかけ、斯波義廉、六角高頼、土岐成頼が屋敷に引き篭もったという噂が流れる(『大乗院寺社雑事記』)。しかし事態は今や義政のひと言で収まるほど単純なものではない。

 翌8日昼、中ノ御門猪熊にある一色義春屋敷と近衛町の吉田神道家の屋敷、さらに9カ所に火の手があがった。乱妨人(強盗)・物盗りのしわざというが、東軍の挑発ではなかったか。同時に義視を総大将に担いだ東軍が攻勢を開始。一条大宮で赤松政則勢が山名教之勢を破った。一方では斯波義廉勢が京極持清勢を破る。義廉屋敷も東軍の攻撃を受け、南は二条、北は御霊ノ辻、西は大舎人町、東は室町と、堀川を挟んだ広い範囲の家屋敷3万余りが焼け野原となった。

 その後、義廉は降伏を検討したものの、重臣で主戦論者の朝倉孝景の首を差し出せとの条件を拒み、東軍からの継続攻撃にさらされている屋敷に引き籠もった。

 京以外でも西軍の動きは活発化している。上京が焼けたと同じ8日、丹波では但馬・伯耆・備後の西軍方が攻め込み、守護代内藤氏の軍勢を撃破。

 中国地方では西軍方の巨魁・大内政弘が5月10日には周防・長門・安芸・石見・伊予・筑前・筑後・豊前八ヶ国の兵1万(3万ともいう)を率い2000艘の大船団を催して出陣、徐々に京へと近づきつつある。

 だが、東軍の対応は鈍かった。勝元の一族・持久(和泉下半国守護・頼久の子)が「大内勢が堺に着岸するだろうとのことなので、防御態勢を整えよ」と指示を発したのが7月20日で、その日すでに政弘は目と鼻の先の兵庫に到達し、しかも、結果的に政弘勢は堺に向かわなかったのだから、お粗末もいいところである。

 結局政弘は8月3日まで兵庫に滞陣し、摂津で迎撃の構えを見せた秋庭氏を蹴散らすなどして8月23日に入京、南の東寺に入ると、翌日北方の船岡山に布陣した。

(次回に続く)